「関係」は存在しない、「敵対性」が存在する

 いまや、ほとんど参照されることもなくなっているらしいジジェクは、次のように言っている。

 

したがって、敵対とは、異性愛LGBTとの敵対ではない。敵対は(再びラカンのことばで言い換えれば、「性関係はない」という事実は)、規範的異性愛の核心に存在している。敵対は、ジェンダーという規範を暴力的に押しつけることによって抑制され曖昧にされる。(『絶望する勇気』)

 

 ここでジジェクが言っているのは、「セックス」が「ジェンダー」へと「革命的」に読み替えられていった時、セックスにおける「性関係はない」という敵対性のリアルが隠蔽されたということである。だが、その敵対性は消え去ることはない「普遍的」なものだ。ゆえに不断に回帰してくる。

 

 ジジェクが、われわれは皆トランスジェンダーだと「強弁」するのも、「トランスジェンダーはあらゆる性的同一性に潜む不安を浮き彫りにし、性的アイデンティティが構築された/不安定なものであることを暴く」ものであるからだ。「トランスジェンダー」は、資本主義の不安や敵対性が周期的に露呈する「恐慌」のような存在なのである、と。当たり前だが、セックスではなく、ジェンダーという概念が、トランス「ジェンダー」を生み出したのだ。

 

 ラカン松本卓也が言うように、「ファルス享楽とは総じて男性と女性がそれぞれみせかけを相手にして享楽するものであり、そこには両者のあいだで共有しうる享楽が存在しない。性関係が存在しないのはそのためである」(『人はみな妄想する』)。すなわち、松本が身も蓋もなく明言するように、要はセックスという行為は、男性、女性「そのものを相手にするのではなく自分の身体器官(ファルス)をつかって自慰を行うようなものなのである」(セックス経験者なら誰でも身に覚えがあろう。「一緒に=同時に」エクスタシーに達しようとするのもその「やましさ」からではないか)。ラカンが「白痴の享楽」と呼んだものにほかならない。われわれは、「性関係はない」というセックスの敵対性を、それが「リアル」であるがゆえに、ロジックではなく(白痴の)「享楽」で塞ぐほかないのだ。

 

 したがって、法や公権力といった「制度」を背景としたセクハラやパラハラといったPCによって、この敵対性のリアルを乗り越えることはできない。あいまいに弥縫することができるだけだ。なぜなら、女性/男性の差異は、それが差異化する項よりも先に、その敵対性において存在してしまっているからだ。「女性は非男性であるだけではなく、男性が完全に男性になることを妨げる者――男性は非女性であるだけではなく、女性が完全に女性になることを妨げる者」(ジジェク前掲書)である以上、たとえお互いが全滅するまで駆逐しあったとしても、敵対性としての差異は残存する。したがって、「性的差異という敵対的な緊張関係のない平和な世界、それは男女が序列をともなってはっきりと区別され安定している世界か、性が流動化して脱性化された幸せな世界のどちらかである」。

 

 そして問題なのは、「こうした平和な世界という幻想のなかに、社会的敵対のない社会、ようするに階級闘争のない社会という幻想を見いだすのは難しいことではない」ということだ。階級闘争も、セックスと「同様」(「同質」ではない)な論理、すなわち商品(所有者)a/bの敵対性に根差しているからだ(※)

 

 資本制社会においては、その根源的な敵対性が、「貨幣」という、「トランスジェンダー」ならぬ商品(所有者)の位相を「トランス」した「モノ」の次元へとスライドさせられ、その結果、貨幣を多く持つ者と少なく者という量的な差異へと還元させられてしまっている。資本主義とは、a/bという差別を、しれっと差異へと読み替えてしまうシステムにほかならない。

 

 「性関係は存在しない」ように「商品関係は存在しない」のである。資本主義は、法や公権力という「制度」(沖公祐)のもとに、aとbの両者が「関係」できるという「幻想」によって成り立っている。そして、あたかも「関係」が存在するかのような「幻想」をもたらしているのが、「労働力」の無理やりの商品化にほかならない。本当はそこに暴力があり、差別がある。

  

(※)津村喬は、それを「関係の敵対性」と呼んだはずである。「戦中派はせいぜい〈関係の絶対性〉を問題にすることで満足した。だが〈われわれ〉は、はじめから〈関係の敵対性〉の中に置かれていた。しかもこの敵対性は極端に隠蔽されており、不確定性にしか顕在化しない」(『戦略とスタイル』)一九七一年)。

 

中島一夫