革命の狂気を生き延びる道を教えよ その4

 大西巨人は、「俗情との結託」(一九五二年)で、今日出海の『三木清に於ける人間の研究』と野間宏『真空地帯』における性の描かれ方に、「俗情との結託」を見出した。

 

まして人間が、ある条件の下で性慾処理・青楼行きの問題に直面して、そこに深刻な社会的・道徳的――一夫一婦制の、純潔の、売淫の存在その他についての――問題を発見したり悩んだりすることは、今日出海らの目には野暮の骨頂、お話しにならぬ滑稽、非人間的な事柄と映じるのであろう。〔…〕それは、この作品が(現代まだ労農市民・国民大衆〔特にその遅れた層〕の中に広汎に存在する)封建的・後退的要素すなわち俗情と結託することによって書かれ、それと結託することによって読まれた、という事実を指示するとともに、現在また今日出海帝国主義反動の狡猾極まるイデオローグとして俗情との結託・俗情の保守のために積極的に努力した、という事実を証拠立てる。〔…〕

 

しかしその曽田は「彼自身あそびに行かないわけではなかったが」ということ、すなわち彼自身の買春と社会主義反戦思想との関係については少しの疑問も感じる様子がないのである。のみならず、このことは、ひとしく作者もなんら疑問としないところであるらしい。この曽田は、時子と言わば「肉体主義的」な性関係を行ない、その行為の途中で彼女に「半ば兵隊に奉仕する感じ」などという相手を慰安婦扱いにした見方を抱き、それを「兵隊である限りは、こうなのである」と真空地帯のせいに解消してしまうのである。〔…〕ここにもマニラの青楼にたいする今日出海の場合とおなじ俗情との結託が認められねばなるまい。

  

 この時、大西は、明らかに一夫一婦制に反する性欲処理や買春行為を、あたかもそれが軍隊を含めた封建制の不合理性が支配する空間=真空地帯を「うちこわす」(野間宏)行為であるかのように描くことを「俗情との結託」として批判している。すなわち、「俗情」とは、一夫一婦制の外へと安易に踏む外すことを意味していた。

 

 さらにいえば、「彼自身の買春と社会主義反戦思想との関係については少しの疑問も感じる様子がない」と言うのだから、このとき大西は、一夫一婦制への永久革命こそが、社会主義の道だと考えていたはずである。大西からみれば、野間らの性的放縦など反革命以外ではなく、それが封建制の残滓の清算につながることなどあり得なかった。

 

 むろん、共産党員だったのだから当然だが、このとき大西は、講座派史観に基づく二段階革命論を信じていたということだろう。その一段階目においては、封建制の残滓を打破し、日本民主主義人民共和国を樹立する民主主義革命が目指されねばならない。大西においても、まずもって、一夫一婦制=平等の浸透が追求されなければならなかったゆえんである。

 

 そのように、講座派マルクス主義は、その「半封建」の残滓としての天皇制打破を、革命の第一段階において考えていたはずだが、当の戦後天皇制は、戦後憲法とともにいち早く民主主義と結託し、したがって王殺しは行われたこととした。戦後憲法の曖昧さは、結局すべて王殺しがうやむやになっていることに集約される。さらに、戦後天皇制は、皇太子と正田美智子の外婚制に基づく結婚(一九五九年)によって、むしろ一夫一婦制=民主主義の模範(象徴)となることへとアダプテーションした。マスメディアに即応した大衆社会の欲望の鏡像となる「大衆天皇制」(松下圭一)の成立である。ほぼ並行して、スターリン批判(一九五六年)以降、社会主義共産主義の信頼は低下の一途をたどっていた。

 

 このような歴史的文脈において、改めて大西の大江批判(一九五九年)を捉え直してみるとどうか。大西のいう一夫一婦制という永久革命が、社会主義の道を照らし出すことのリアリティは失われつつあったのではないか。大西の大江批判が拠って立つ一夫一婦制=民主主義は、戦後の大衆天皇制に簒奪されようとしていた。

 

 繰り返せば、大西においては、まだ二段階革命論の有効性が信じられていた。だが、すがの大江論が述べるように、父=法の不在(衰弱ではない!)において、「「父の名」の排除」のごとき狂気を生きる大江においては、いわば革命=王殺しはすでに訪れているのである(すがの読みでは、敗戦を前に死んだ父が王殺しの担い手であった、と)。姦通や近親相姦などを繰り返しながら、しかしそれに「否」という法が欠如しているがゆえに、ほとんど罪の意識を持たない「性的人間」たちは、一段階も二段階もなく、「今この現在が革命の時だ」と叫んでいたのではなかったか。その1で見たように、すがの大江論では、これがブント内「革通派」――新たな前衛党を提起する黒田寛一や、当面は小ブルジョワの運動でやっていくしかないという吉本隆明の方向ではない――が、「今ここにおける「革命の現実性」」をパラノイアックに強弁していたのと重なるわけだ(この革通派の流れと、まさに「マッドサイエンティスト」のような岩田弘の世界資本主義論が合流して、68年を準備することになる、と)。

 

 話を戻せば、大西は、『われらの時代』の同性愛を、「反自然的・反倫理的」と批判した。だが、大江は、まさに「反自然的・反倫理的」だからこそ、同性愛(のみならず数々の性的倒錯)を繰り返し描いたのである。

 

 大西は、「姦通がなぜ悪いか、というようなことを言ったり、そのとおりに実行したりする人間にたいしては、それが男子ならその妻にも、それが婦人ならその夫にも、姦通を実行させてみよ。もしそれでも当人が平気でいるようなら、その人間を精神病院に強制収容せよ」と挑発した(「批評家諸先生の隠微な劣等感」一九五九年)。大江が『性的人間』や『万延元年』などで、まさに姦通される夫を次々に描いていったのは、ひょっとしたら大西へのレスポンスだったのではないか(正気(正常者)をそれだけで敵視し、自ら「精神病院に収容」されるべく、病に苦しみながらも狂気に踏みとどまろうとした、吉田おさみのラジカルな狂気のように、というのは言い過ぎだろうか)。

 

J、きみは性倒錯だ、蜜子ちゃんに聞いたところでは、きみが自分の妻を性的に男色の相手の少年の代用みたいにあつかっているのはあきらかだ。はっきりいえば性倒錯の男が妻をもっているときには、他の男がその妻と肉体関係をもつべきなんだ、それは他の男の義務だ」(「性的人間」一九六三年)

 

 すがが言うように、大江の狂気は、「民主主義社会に潜在する「原父殺し」の反復であり、現実世界へと誘なったはずの父親による去勢の拒否」である。大江は、「政治少年死す」の「南原征四郎」同様、「「王殺し」以降の民主主義体制を称揚しているが、同時に、否と言う「父の名」=法が回帰していることに、倒錯的に抵抗している」のだ。

 

 王殺し以降の民主主義体制は「称揚」されなければならないが、同時に、その結果「父の名」=法が回帰してくることに対しては「倒錯的に抵抗し」なければならない――。それが大江を、「戦後世代の代表者(チャンピオン)」という戦後民主主義オピニオンリーダーのような側面とともに、それに抵抗する側面とに分裂しているように見えさせる理由である(いわゆる「懐」かしい人・大江と、「壊」す人・大江)。

 

 つまり、民主主義とは、平和で平等どころか、本来は!「王殺し」の狂気に反復的に見舞われる社会にほかならない。にもかかわらず、それが平和で平等のようにみなされているのは、原父が独占していた享楽が、その死後、共同体内に分配されていると信じられているからだ。

 

 だが、この享楽の平等な分配=一夫一婦制-民主主義とは、原父殺し後の「空席」を塞ぐように導入された「否=法」、すなわち外婚制-近親相姦の禁止が、あらかじめ書き込まれた「規範」にほかならない。平和で平等なのは、ここにおいては全員が禁止を受け入れているからである。分配以上の過剰な享楽が禁じられているから「平和」なのであり、それを全員一致で受け入れているから「平等」なのである(だから、大きすぎる享楽の不平等に対しては、その所有者はカリスマ(原父!)のごとき崇められる一方で、わずかな不平等に対してはきわめて嫉妬深い)。

 

 重要なのは、ラカンジジェクも言うように、この「禁止」がイデオロギーだということだ。つまり、「否=法」の導入とは、「主体が欲望の充足に内在的な不可能性を禁止に変換することによって欲望に構造的な行き詰まりを回避するような仕方に他ならないのである」(スラヴォイ・ジジェク『為すところを知らざればなり』)。まるで、「欲望が好き勝手にすることを妨げる禁止がなかったら欲望は満たすことが可能であるかのよう」に。

 

 民主主義の主体には、分配以上の欲望を満たす能力など、あらかじめ喪失されている。にもかかわらず、その自らの不能を隠蔽するために「禁止」という「否=法」を甘んじて受け入れているわけだ。ラ・ボエシのいう「自発的隷従」であり、それに反して「欲望を諦めるな」(ラカン)といわれるゆえんだ。また、大江の「性的人間」たちが、男根が「勃起しない、爆発しない」不能の者として、隠蔽されるどころか繰り返し描き続けられなければならないのも、「禁止」のイデオロギー性を暴くためだろう。

 

 欲望は不可能なのに、それは禁止されているので致し方ない、われわれは民主主義的な主体なのだから、その禁止を甘んじて受け入れよう――。そうすることで、「欲望の行き詰まり」(ジジェク)を回避しようとするのが、一夫一婦制をインフラとする天皇制―民主主義である。大西『神聖喜劇』に準えれば、天皇制―民主主義は、王殺しなど「知りません」を禁止(否=法)され、また「忘れました」を強要されているうちに、いつしか王殺しを不問に付すことを当たり前のように受容している社会にほかならない。忘れたことを忘れてしまったのだ(すがは別稿で、この状態を「認知症=転向」と捉え、大西がこれを恐れていた作家だったと論じていた(「大西巨人の「転向」」二〇一七年))。それに対して、大江は、「亡き父を狂人と見なし、それに唆されて自らをその無理な(理のない)狂気を反復する者とする」(すが)、すなわち王殺しを教わらずして教わりました(狂気をもって使嗾された)とすることで、王殺しなど「知りません」禁止にも「忘れました」強要にも抵抗しているのである。それだけが、天皇制―民主主義が、決して平和で平等なのではなく、ただ欲望に行き詰っているだけであることを知る、か細い「道」であるというように。

 

鷹四は戦後天皇制民主主義の体制に行き詰まっているのであり、それを「狂気」によってのりこえようとしたと言える。それが、今ここにおける「革命の現実性」である。大江健三郎が、『万延元年のフットボール』以降も、その「狂気」の「生き延びる道」に賭けていたことは、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』のみならず、それ以降の諸作品を見ても明らかではないか。(すが秀実「小説家・大江健三郎」)

 

 この大江の狂気を、PCで裁くことは不可能だろう(排除はいくらでもできる)。PCは、いかにそれが過激に見えようとも、あくまで天皇制―民主主義のもとでの平等=分配の追求にすぎないからだ。そしてそれは、「なんじの欲望を諦めよ」と、革命など「忘れました」にしか帰結しない。

 

中島一夫