感染予防行動と経済

 経済を回しつつ、感染予防行動を徹底せよ。そんなことが容易にできるのだろうか。

 

 誰もが気づいているとおり、それは「動け、かつ動くな」というダブルバインドの命令であり、端的に「矛盾」だからだ。

 

 もちろん、資本制国家は、「ならば」とばかりに、前者と後者とを分断し、役割分担させるだろう。中央と地方、経済界と医療従事者、…。それはいつのまにか、労働者をも分断するロジックとして機能している。職場に赴かざるを得ない職種とテレワーク可能な職種。前者は後者を「テレワークできるご身分」として「蔑視」し、後者はその「やましさ」を抱えながら、ほぼ24時間と化した労働に甘んじる。

 

 だが、「動け、かつ動くな」は、コロナ禍において出てきた新しい「命令」ではなく、当初から労働力の商品化に不可避的な「矛盾」ではないのか。いわゆる「労働力商品の無理」(宇野弘蔵)である。「動け、かつ動くな」は、「商品であれ、かつ人間であれ」、あるいはゾンビのごとく「死んでいる、かつ死んでいない」(ジャームッシュの新作『デッド・ドント・ダイ』のテーマ!)という意味にほかならないからだ。それは、最初から「無理」なのである。

 

 では、どうしたらよいのか。対案はない。ただ、今後も前者と後者との役割分担を促進し、前者と後者のさらなる「バランス」を求めてくるだろう「命令」に対して、それははなから「無理」だった、これからもずっと「無理」であるという、ごく当たり前のことは主張し続けるべきではないか。

 

 たまたま最近読んでいた本から引いておく。

 

むしろ重視すべきは、中井がプロレタリアート及びその予備軍としての浮浪者を悪魔と呼ぶとおり、市民社会の等質化にあたっての見えざる自然の調和的な成長において、労働力商品とその予備軍は資本の自己増殖の只中に巣喰う掛け金にして、かつそのアンチフィジスであることだ。それは等質化された市民社会のリアリズムを支える自然すなわち貨幣―資本関係の半ば外部にあって、豊かな個性の発露の陰で摩耗や疲労、身体の変調のほか偶発的な事故など、したがって資本の自然成長すらも否応なく内包せざるを得ない反―自然もしくは反―自己増殖、つまりは反―資本として、にもかかわらず市民社会における自然成長に際して排除不可能な鬼子として摂り込まれつつも、棄てられる。(長濱一眞『近代のはずみ、ひずみ』)

 

 「動け、かつ動くな」という「命令」にしたがえば、「摂り込まれつつも、棄てられる」のがオチである。「摩耗や疲労、身体の変調のほか偶発的な事故など」に見舞われた挙句に。

 

 「リアリズム」。現在それは、「動け、かつ動くな」を自明視するイデオロギーとして表れている。

 

中島一夫