近代のはずみ、ひずみ 深田康算と中井正一(長濱一眞)

 

近代のはずみ、ひずみ

近代のはずみ、ひずみ

 

  何度か書いてきたことだが、ISの登場以降、再び三度「非西洋」が「もの」(フェティッシュ)としてリアリティを帯びてきている。それは、このコロナ禍においても、持続、拡大している。そして、ISのロジックが、保田與重郎や日本浪漫派の論理ときわめて似ていることも、指摘してきたことだ。

 

knakajii.hatenablog.com 

 橋川文三『日本浪漫派批判序説』を筆頭に、六〇年安保の後、桶谷秀昭磯田光一村上一郎など、保田や日本浪漫派を論じるのがブームだった一時期があったといわれる。そうした状況は、現在もまた、ポテンツを下げたまま薄く広く浸透しているように思える。われわれは、そうと意識しないまま、保田の言葉の上にいる。

 

 新木正人『天使の誘惑』に震撼させられ、つい書評めいた記事を書いてしまったことがある。新木の言葉は、妙に生々しいリアリティがあった。それは、橋川文三村上一郎などとは全く異質の言葉として、であった。

  

knakajii.hatenablog.com 

 本書における長濱の言葉は、新木のそれとはまったく異質なものだが、どこか触れ合うものを感じる。長濱の文体もまた、述べられている内容はきわめて明晰でありながら、どこか読む者を「遠くまで」(行くんだ!)連れ去っていくところがあるからだ。そして、困ったことに、本書が根底では保田に批判的であるにもかかわらず、下手をすると、メインの深田康算や中井正一「以上に」保田の像が魅力的に見えてきてしまう部分があるということも、どこか新木の書と似ているように思う。

 

 本書は、いまだなお、いや述べてきたように、より一層われわれを吸引してやまない保田の言葉から、いかにぎりぎりのところで、身を「はず」ませては引きはがすか。それを、保田とともに「ドレフェス革命から生まれたふたりの嬰児」だったと著書が評する、(深田康算―)中井正一の思考と実践に見出そうとする試みである。

 

 それにしても、先日の記事で述べたように、「決定不能」な「嘘」とたたかい続けた大西巨人が、もし本書を読んでいたら、どのように考えただろうかという思いを禁じ得ない。大西が苦しんでいたのも、次のような事態に違いないからだ。

 

knakajii.hatenablog.com

 だが仮に「主張」されたことは虚偽か否かを決定するためのその前提が相手との共有に至らないどころか言表者においてすら決定不能に陥る場合、だから言表者の意図に反して反語(アイロニー)が通じず、あるいは意図せず反語(アイロニー)として受容された等々の水準をも超えて、浪漫派的イロニーへの変貌が始まる。言い換えるなら「主張」だけが表層的に露呈するばかりで、「確信」、したがって反語(アイロニー)においては言表者とその相手がその共有を確認しあうべきメタレベルに蔵されている真の意味ないし規則が、もはや確定できず消失したものも同然に至るとき、けれどもその「主張」と「確信」とが等号で結ばれている保証もなく、反する「確信」がどこにもなく、ひたすらに「主張」だけがその裏付けを欠き決定不能のままたゆたうとき、それは起こる。ここにあって「主張」は嘘か真か断定しえず、透明な言語の流通と消費にひとかたならぬ支障を来すこととなるだろう。〔…〕もとより保田はその日本浪漫派的言辞が「嘘」であると明言している。だが、その明言された「嘘」が延々と執拗に繰り返し言表され続けていき、保田自身もその「嘘」を信じていると判断せざるを得ない態度に終始することで、「嘘」の表明にもかかわらず、やはりその「確信」における真偽は決定不能のままに措かれる、否、のみならずもはや最終的にことの真偽を決する審級としての「確信」は確信犯的に消失へ追いやられているのだ。(「第七章「ある」の投擲」)

 

 大西が、保田や日本浪漫派、あるいは村上一郎に抱いていたシンパシーも、こうした「嘘」の構造から捉え直すことができるのではないか。

 

 いずれにせよ、リアリズムの問題といい、嘘(言)の構造の問題といい、私にとってはテーマや関心が近すぎるほどで、避けては通れない一冊である。現在も再読三読の最中。本書については、また触れることがあろう。

 

中島一夫