ドゥルーズとマルクス 近傍のコミュニズム(松本潤一郎)

 

 

 

 本書をご恵投いただきました。

 

 中上健次は「物語とは、資本である。物語論とは、資本論である」と言った(「〈熊野〉と〈物語〉断章 Ⅰ物語=資本」1978年、『中上健次と熊野』)。「戦略を自覚せよ、資本論としての物語、ととらえるという事は、つまり、安易な、物語に対するオマージュでもないし、ましてや、資本論を~主義のもとに読もうとするではない。」

 

 中上は、「物語論とは、資本論である」ことを捉えるには「戦略を自覚」することが必要だと述べる。それは同時に、それが「戦略」でしかないこと、すなわち決定的な処方箋ではあり得ないことを「自覚」することでもある。

 

語る事を自註する事が〈開かれた豊かな文学〉では要るのではないか、定型をずらす事、定型を、いまひとつ、変容さす事、もちろん変容したとしても、また新たに、別の戦略があらわれるだけである。木喰(ミイラ)取りが木喰になるが、それを知りながら、定型=物語の奥深くに入り、この世界を鏡に写してやる事。

 

 本書を読んで真っ先に思い出したのは、この中上の「物語論とは、資本論である」というテーゼだ。

 

 松本は、「マルクスは産業資本主義の仕組みを解明し、それを過去のものにして、「むかしむかし資本主義というものがあった……」と始まる物語を完成させようとしました。物語は完成しなかったものの、その〈終わり〉の素描を彼は遺しました」(本書あとがき)と述べる。

 

 中上は「物語論とは、資本論である」と言って、資本論としての物語を「変容」させようという「戦略」を作家として実践しようとした。それに準えれば、マルクスは「資本論とは、物語論である」と捉え、その物語としての資本主義を終わらせようとした。一言で言えば、本書はそのような書物だ。

 

 中上は物語の「機構」を浮き彫りにする。「物語とは、それこそ、最初の冒頭を読んだだけで、ああなってこうなって、ああなる、と序破急、起承転結、プロローグからエピローグに流れ、読みはじめるや否や物語のわくに人をはめこめて、涙を流したくてたまらない人間にさせ、性器を勃起させたり女陰を濡らして喜びたい人間にさせる通俗そのものの機構なのである」。

 

 松本によれば、マルクスは同様に、資本主義という物語の「仕組み」を問題にしたのだ、と。

 

資本は私たちに欲望を吹きこんだうえで、「きみがそれを欲するのであれば、それなら――」をもって私たちを円環に引きずりこむのです。この仕組みはすべてを手に入れたいという願望から生まれるのでしょうか。仕組みが先にあるから願望が生じるのでしょうか。マルクスの立場は後者でした。この仕組みはしかも願望に依存しつつ、仕組みを拡大させてゆきます。先後がひっくりかえっているのです(あとがき)。

 

 物語とは、偶然に起こった出来事E1と、その後起こった出来事E2とを、因果の鎖で結びつけ、本来何の脈絡もない出来事を「序破急、起承転結、プロローグからエピローグに流れ」ていくよう「物語のわくに人をはめこめて」、偶然性を必然性へと変換させてしまう「機構=仕組み」にほかならない。物語を語る欲望とは、あらゆる出来事を必然的な因果関係=歴史の「円環」に回収してしまいたい(いわゆる伏線回収の快楽)という欲望である。

 

 そのとき、欲望が先か、「機構=仕組み」が先か。マルクスは後者が先だと考えたはずだと松本は主張する。だが、歴史の必然を説く唯物史観マルクス(主義)は、マルクスを偽りの「歴史」家=「物語」作家に仕立てあげてしまった。スターリン批判以降、68年以降、冷戦終焉以降、……。「物語」は、強靭にも、歴史の必然からの解放そのものをその都度「物語」として語ってきた。本書は今度こそマルクスを、そうした「物語」から解放し、必然ではなく偶然の歴史を見ようした本来の「歴史家」へと奪還しようとする一冊である。そのために松本は、マルクスドゥルーズ「と」(あるいはクロソウスキー「と」)接続させようという「戦略」を立てたわけだ。

 

 同時にそれは、革命概念を、「必然史観」に基づくものではなく、そこから「マイナス1」されたものへと「変容」させようとすることでもあろう。ミイラ取りになるのを承知で物語の懐に入りこんでは、物語の「近傍」で物語をずらそうとした中上のように、松本は資本主義の「近傍」に、「もし労働と資本とが出会わなかった」としたら、というコミュニズムというもうひとつの「物語」を語ろうとする。あくまで「戦略」のひとつとして。

 

 (中島一夫