資本主義リアリズム――「この道しかない」のか?(マーク・フィッシャー)その2

 したがって、単にアナーキズム的、ヒップホップ的な「反」資本主義ではなく、資本主義とは異なる「普遍性」でもって対抗しなければならない。「バディウが力説したように、有効性のある反―資本主義とは、資本への反発でなく競争相手(ライヴァル)でなければならない。資本主義以前の領土性への回帰は不可能なのだから、反―資本主義は、資本の世界主義(グローバリズム)に、それ自身の正当な普遍性でもって対抗しなければならない」。

 「資本主義リアリズム」とは、資本主義は「リアリズム」そのものにほかならないということなのだ。より正確に言えば、リアリズムが、資本主義を見せかけの「リアリティ」として「構成」するのだ。資本主義とリアリズムとは、ともに等価交換を原理とする「共犯者」なのである。

 したがって、まずもって、リアル(現実界)とリアリティ(現実)とを峻別し、動かしがたい「現実」と思われている後者が、いかに「偶然」に「構成」されたものであるかを示していく必要があろう。政治化するとは、必然と思われていることを、偶然と見なしていくことだと言ってもよい。

ブレヒトをはじめ、フーコーバディウに至るラディカルな思想家の数々が主張してきたように、社会の開放を目指す政治はつねに「自然秩序」(あたりまえ)という体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せられていたことをただの偶然として明かしていくと同様に、不可能と思われたことを達成可能であると見せなければならない。(p50)

本当の意味で蘇生した左派が、私が(極めて暫定的に)概略したこの新しい政治的領域を自信をもって陣取っていくことが決定的に重要だ。本来的に政治性をもつものなど存在しない。ものごとを政治化していくには、「当たり前」とされているものを「誰もが勝手に変えられるもの」へと変えていくこのできる政治的な行為主体(エージェント)が必要だ。(p195)

 共同体の果てるところでの偶然の出会いから商品交換は発生したと言ったマルクスに忠実に、アルチュセールは「偶然性の唯物論」と言った。「史的唯物論ではなく、偶然性の唯物論によって封建制から資本主義への移行を理解するならば、資本主義の生成は必然ではなく、偶然であることになる。(中略)それゆえ、資本主義の成立は、二つの原子の運動(注―「貨幣の蓄積」と「プロレタリアートの創出」のこと)の必然的な帰結ではない。両者は出会わなかったかもしれず、したがって、資本主義をもたらさなかったかもしれないのである」(沖公祐「間という外部」『政治経済学の政治哲学的復権』)。

 社会主義圏の崩壊によって史的唯物論という必然性は終焉した。だが、一方でそれは、資本主義の偶然性に、それが偶然に「構成」されたにすぎないということに、改めて我々を直面させているのだ。

(続く)