ユーチューバーという労働

 先日、知り合いの子供たちが「ユーチューバーごっこ」をやっている光景を目にして、軽い衝撃を受けた。実際に配信しているわけではないようだが、トップユーチューバーを真似て、カメラの前で「番組」の動画を撮影しているという。ユーチューバーは、中学生男女の「なりたい職業」の上位を占めている。いまや似たような光景が至る所で繰り広げられているのだろう。トップユーチューバーらの羽振りの良い生活を動画で見て知っている以上、この資本主義社会において、彼(女)らの模倣の欲望をとめるものなど何もない。

 

 彼らは、ユーチューバーの収入のしくみや、いかにそれだけで食べていくのが難しいかといったこともすでに知っている。ワイドショーのコメンテーターは、逃げ切りそうな年長世代を尻目に、彼らは自分らが逃げ切れないだろうということも知っており、それならばせめて一瞬だけでも輝きたい、少しでも働かずに楽しく稼ぐ暮らしを夢みたいというメンタリティを抱いているというようなことを述べていた。ついつい年長世代は、ユーチューバーの浮ついた虚業ぶりを批判的に見てしまうが、同情すべきところが多々ある、と。

 

 ただ問題なのは、それが「働かずに」稼げる手段ではないということだろう(そもそも、なりたい「職業」と言っているのだが)。

 

 今さらながら気が引けるが、かつてネグリとハートが言ったように、「非物質的労働」においては仕事と余暇の区別が曖昧化する。「工場労働のパラダイムでは、労働者が生産するのはもっぱら工場の労働時間に限られていた。しかし生産の目的が問題の解決やアイディアまたは関係性の創出ということになると、労働時間は生活時間全体にまで拡大する傾向がある。アイディアやイメージはオフィスの机に座っているときばかりでなく、シャワーを浴びたり夢を見ているときにふと訪れるものだからだ。」(『マルチチュード』上)

 

これについて、沖公祐は言う。

 

要するに、新たな精神労働では、労働時間の内外において、つまり、内心と余暇時間の両方に向かって、労働力の売買によって資本に譲渡される部分が際限なく拡大していく傾向がみられるのである。このことは、賃労働者がその固有性―属性(プロパティ)を失いつつあることを、したがって、かつての呼び名であるサーバントに再び近づきつつあることを意味している。

(『「富」なき時代の資本主義』)

 

 ユーチューバーは、不断に他のユーチューバーとの競争状態に置かれている。資本主義のもとでは、利潤を発生させるのは他との差異なので、他と差異化するような「アイディアやイメージ」を絞り出す労働に、彼らは寝ても覚めても24時間携わっていると言っても過言ではない(実際、睡眠時間はほとんどないようだ)。ユーチューバーをはじめとする「非物質的労働」とは、実質的な労働の従属―包摂の完成形態なのだ。

 

 なるほど、ネグリは「非物質的労働」を、「生の生産」とか「デュオニソスの労働」などと称揚した。だが、実際は「生の生産」どころではない。それは労働者が、労働力の売買によってはまだ譲渡されなかった「人格―身体の固有性」をも譲り渡し、したがって「知的能力や感情といった精神的な諸力までもが資本の統制下に置かれることにほかならない」。このとき労働者は、沖の言うように、完全に「サーバント」と化す。資本はもはや(市民)社会が利潤を発生させないと知るや、社会から撤退しつつある(市民社会の崩壊)。すなわち、奴隷を市民に仕立て上げ、市民社会擬制してきたことを放棄し、再び「奴隷」へと引き戻しつつある、と。

 

 そのとき資本は、それを「人的資本」と言い換え、今や誰もが「生の生産」が可能な「資本家」であるかのように振る舞うだろう。「ユーチューバーごっこ」に興じる子供たちは、「サーバント」への「レッスン」を行っているわけだ。

 

 もちろんそのおぞましさは、今や何をやっているのか意味不明な大学教育や入試のおぞましさと通底している。子供から大学まで、すでに市民社会の「規律・訓練」装置としての機能が不要となった「教育」は、変わりゆく資本主義と労働の形態に応じて、ますますおぞましく変貌しつつある。大学に侵食している教育産業=資本を批判していれば済む段階は、とうに過ぎ去っている。そうした批判は、「不純」な資本に対して、どこかに「純粋」な(大学)教育があるかのような幻想を撒き散らすだけである。

 

中島一夫