物語と悪――王殺し「後」の中上健次 その3

これはもう、被差別部落出身の人間の条件かもしれないんですけど、それがなぜ物語の主人公となって、いわゆる王子としか言いようのないような響きを持ってくるのか。単にそれは、みなし児であったり、私生児であったりすることが、読者にかわいそうだと思われるからじゃないわけなんですよ。

 どういうことかと言いますと、親に捨てられると子供は死んじゃいますね。小さかったら、それはもう殺されてあるわけなんです。一度親から、お前を殺してやると、子殺しされたという烙印を、例えば額に押されてあるもの、それがみなし児・私生児ですね。ただ、それが生き残ったわけなんですよ。それを跳ね返して、つまり酷い現実を引き受けて、生き返ったわけなんです。生き返って、自分でしっかりそこに立っているっていう、そういう状況がみなし児・私生児が王子になる条件なわけなんです。で、そこでですね、彼らが物語の主人公である限り親というのは殺すもの、あるいは非常に酷い試練をするもの、そういう形になるわけなんです。〔…〕後になって王になって、つまり自分の出生を消して親になるわけなんですね。親になった自分を親の位置から引きずり降ろすかもしれん罪、僕は王子の罪というのをそう解釈するんです。(『中上健次と熊野』)

 

 中上は、自らはみなし児、私生児であり、被差別部落出身の人間だから、差別を糾弾したり、物語の主人公の資格があるなどと言いたいのではない。それでは、「その1」で見た戦後文学のような、弱者の立場、被害者の立場から書かれた純潔の文学にしかならない。そうではなく、中上は、人間は皆、みなし児、私生児であり、物語の主人公だと言っているのだ。だからこそ、「物語」は「定型」になるのである。誰にとっても、「子供は親に追いつかず」、親は「先に行ってしまっている」「謎」にほかならないからだ。

 

 人間の赤ん坊は自分では餌もとれず、すべてを親からの養育によらなければ生きて行けない。にもかかわらず親が二十四時間、子供に付きそうことができない以上、「親に捨てられると子供は死んじゃいますね。小さかったら、それはもう殺されてあるわけなんです」という状態は不可避的である(だからネグレクトは問題なのだ)。この親による「子殺し」は、良い親悪い親の区別なく、人間の子供にとって宿命的な「烙印」なのだ。

 

 ここで、フロイトの「fort/da」を想起すべきだろう。フロイトは、母の「fort(不在)」と「da(現前)」として思考しているが、もちろんこれは母でなくても養育者であればよい。子供にとって、母(養育者)の気まぐれな「現前」と「不在」が、+と-が連続する象徴的なセリーを、すなわち前駆的な象徴機能(原―象徴界)を形成する。この+と-は、単に象徴的な意味にとどまらず、先に述べたように、子供にとっては生と死を分かつ「法」として機能する。しかも、子供には、なぜ「現前」と「不在」が繰り返されるのか、ついに「謎」のままである気まぐれな「法」なのだ。したがって、ラカンはこれを母の「欲望」と呼んだ。子供にとって、母の気まぐれな「欲望」が、同時に「法」のような超越性で翻弄してくるのである。

 

 こうして子供は、なぜ母の「現前」と「不在」が繰り返されるのかを想像せずにいられない。それは、母の「欲望」という「シニフィアン」に対する「シニフィエ」が何であるのかを問うことと同義である。母の気まぐれな「欲望」は、子供にとっては生かされるも殺されるも母の「欲望」次第という、生殺与奪の権を握られた状態なのだ。これが、中上の言う「額に押された」「子殺しされたという烙印」という「原―象徴界」を形成するのである。

 

 ラカンは、母が欲望する「何か」を「想像的ファルス」と呼んだ。見てきたように、中上の言う「額に押された」「烙印」もまた、この「想像的ファルス」とほぼ同じものといってよいだろう。そして子供は、その理由も分からないまま、「額に押された」「烙印」を「跳ね返して」「生き返」り「生き残」る。すなわち、ラカン的に言えば、自らの生殺与奪を握る気まぐれな「母の欲望」を、「父の名」の導入によって置き換えて殺し、消去するのだ。この「父の名」という「現実的ファルス」の導入によって、子供は「原―象徴界」の無秩序状態を抑圧、統御し、本格的に「象徴界」へと参入することになる。

 

 これ以降、象徴界に属するあらゆるシニフィアンの意味は、究極的はこのファリックな意味作用をもつ「現実的ファルス」へと還元される。したがって、男性と女性のセクシュアリティも、このひとつのファルスによって構造化されることになる。あらゆるシニフィアンの意味がファルスに還元される以上、好むと好まざるとにかかわらず、セクシュアリティはファルス中心主義的なものにならざるを得ないのだ。松本卓也は次のように言う。

 

ここから先は完全に思弁になってしまいますが。ファルスがどうして人間のなかで最重要なものとしてあるかというと、養育者が自分(子ども)の前から現れたり消えたりするからです。そこにプラスとマイナスの象徴化が生じ、この二項対立が後にペニスの在/不在を人間にとっての最大の問題に押し上げてしまう。

 もし人工子宮や養育のためのデバイスが実現すれば、それは変わることがありうるでしょう。しかし、子育てが、母親ないし父親が子を育てるものとして行われているかぎり、おそらくファルスは消えない。現前と不在がどうしても生じてしまいますから。ですが、二四時間管につながれ、現前と不在を生じさせない機械で育てられた人間は、どういう人間になるかわかりません。ファルス中心主義的なセクシュアリティと関係のない人間になる可能性があります。その代わりに、おそらく言語は話せなくなってしまうでしょうが、そっちのほうがいまの人間より不幸であるという根拠はない。そうなれば、ファルスがなくなる、性別がなくなるという思弁ができるかと思います。(「ポスト精神分析的人間へ」二〇一六年)

 

 たいていは誤解されているが、セクシュアリティがファルス中心主義的になるのは、ペニスの在/不在によるのではない。養育者の「現前/不在」によるのだ。養育者の「現前/不在」が一義的に作用し、「後に」ペニスが問題化されるのである。したがって重要なのは、「父/母」でもペニスの「在/不在」でもなく、あくまで養育者の「現前/不在」である。これが、中上がこだわった親と子の垂直的な「ズレ」を発生させるのだ。中上の言う、親に殺されて、子がそれを跳ね返して生き残るというドラマとは、子が「もの」を「殺害」して象徴界に参入してくる際に引き起こされる、普遍的な生―死のドラマにほかならない。中上は、その親―子の「ズレ」から生じる殺し合いと生き残りを、「罪」や「悪」として認識する(させられる)ということを、物語の主人公の条件として求めたのである。中上が最初期に、象徴界への参入時を示唆する短編小説「一番はじめの出来事」(一九六九年)を書いて出発したゆえんである。親―子の「ズレ」が子に言葉という「ファルス」を不可避的にもたらすが、そこでは必ず壮絶な殺し合いと生き残りという「一番はじめの出来事」が生起しているのだ。

 

 中上は、親や子に「罪」があるのではなく、この「ズレ」自体が「罪」なのだと言っている。したがって、それは内面化された「罪悪感」とは無縁である。そして「物語」とは、この「ズレ=原罪」をたえず確認するための装置なのだ、と。「物語は従って、親(王)と子(王子)の間にのみあるわけです」(『物語の系譜』)。「物語」は、浜村龍三と竹原秋幸の「間」にのみある。だが、戦後文学は、たえず「自分を弱者の立場、被害者の立場に置いている」ので、そこには王(親)に「引っぱられて行って」「いやいややられました」という被害者の戦争(政治)しか描かれない。

 

 すでに言葉が獲得されており、象徴界(言文一致以降の象徴秩序)に存在しているのが自明の前提になっている文学においては、先に述べた言葉の獲得が殺し合いと生き残りの結果だということが見えない。言葉とは、つねにすでに親殺しの「後」なのだ。言葉(というファルス)自体に親(王)殺しが「烙印」として押されているのである。だから、ラカン象徴界への参入を「ものの殺害」と呼んだ。まさに、言葉自体が「もの=物語」の「殺害」なのだ。

 

 その1で見たように、中上は、自然主義的な象徴秩序という近代文学の装置とは別の「系譜」を探るべく「物語の系譜」へと向かった。日本近代文学が形成してきた象徴界の「穴」から殺害された「物語」へと(ラカンが言うように、象徴界には「もの=物語」が「殺害」された痕跡たる「穴」が開いている。この「穴」がある以上、象徴界はそれのみでは自己完結し得ない)、また現存の国家ではなく「闇の国家」へと向かうべく、象徴界の外部へと出ようとしたのである。それは、佐藤春夫谷崎潤一郎といった耽美派的な想像界や、そこからさらに遡行した時に見えてくる、大逆事件=王殺しという陰惨な現実界としてあった。中上は、日本近代文学が、いわば現実界想像界ぬきの象徴界に終始し安住しているために、すべて子=被害者の文学になり果てていると言っているのだ。象徴界とは、自らが親(王)を殺害した加害者で(も)あったことが、すでに忘却され隠蔽された世界である(もちろん、その親との殺し合い、生き残りという相克は、トラウマや精神疾患として残存、沈殿してはいる。だが、それすらすでに「被害者」視点であり、殺害した「罪」ではなく、生きていることへの「うしろめたさ」なのだ)。

 

 中上は、「物語」と言うことで「悪」を見ようとしたのではない。それどころか、「物語」には「悪」が存在しないと言う(秋成の「それ何事かは」(それが何だというのだ))。だが、同時に、ここが重要なのだが、物語は自動的に作動し疾走していく、それ自体「法・制度」なのであり、ひとたび「法・制度」としての「物語」にからめとられてしまえば、「悪なるものは善なるものの前期的状態とも過渡的状態ともしてしまうのである」。

 

悪とは何だろう、物語において人を殺しても、憎悪しても、呪詛しても即悪ではないのは自明の事で、たとえば人殺しを主人公がやるものであるなら物語を読む読者はその悪について判断停止の状態に追い込まれる。ラスコリニコフを思い出してくれればよいし、アラビア人を射殺するムルソーを思い出してくれればよい。

 悪は物語、法や制度上では、悪としてではなく法や制度に慎みを欠いた存在でしかない。それは、法や制度の表れである善の前期、過渡にすぎないのである。谷崎は物語という法や制度の作家である限りは悪よりは善の作家であり、標榜した悪魔主義もあるいは耽美も、実のところあげ底でスノッブの類のこけおどしするものにすぎない。

〔…〕犯人自身、自分の決行している犯罪、法・制度とのむきだしの抵触がすでにどうしようもなくあの物語よろしく序破急に向かって進行しているのを知っている。物語がすべてを浸蝕しているし、物語=法・制度が籠城が長びけば長びくほどその犯人が武力でつくり上げた空間も再び制圧下におこうとする。

 法や制度に抵触する者が出る度に、人は他ならぬ法や制度に向かってつつしみを持ち柔順な者だと自分を証しだてようとする心の働きを持つ。その犯人を指弾する者、それが自分ではなく他の一頭の黒い羊であった事にホッと胸をなぜおろすのである。という事は黒い羊がたった一頭で全身を蝕まれながら歯むかった法や制度、つまり物語とは、自分の中にもその原基がある事に気づいている。性、暴力、宗教、すべてなまなましい。

谷崎の小説にもどれば、この作家を読んでみて一つとしてその黒い羊のようなものは登場しない事に注目を要する。谷崎は生涯、そのようなものに興味を魅かれる事はなかったのだった。(「物語の系譜 谷崎潤一郎」)

 

 中上が谷崎の悪魔主義を「あげ底のスノッブの類をこけおどしするもの」と言い、谷崎を「物語のブタ」と批判したゆえんである(確かに、いまだに谷崎は「礼讃」されすぎてはいないか。中上は谷崎礼讃を「奇妙な文学病」と評した)。谷崎が悪を思考したことはない。谷崎のマゾキズムとは、「人間の持っている原基への耽溺でもマゾキズムでもなく、法・制度へのマゾキズムであった」にすぎない。悪とは市民社会の「法・制度」に抵触することである。その時、市民社会の側は「人は他ならぬ法や制度に向かってつつしみを持ち柔順な者だと自分を証しだてようとする心の働きを持つ」。すなわち、悪は「法・制度」への「つつしみ」を欠いた状態として、すでに「つつしみ」という価値観によっておし測られ解毒されたものへと矮小化されている。その時、悪はすでに「善の前期的状態」になり果てているのだ。いや、本来「物語」は親―子の間の「ズレ」そのものであり、したがってそこにはいまだ「悪」が「悪」として存在しないのだから、「それ」が「悪」と呼ばれた瞬間、早くも「善」への回収作業は始まっているといってもよい。したがって、「法制度上に表れた悪がもし悪として貫徹されるならそれは実に幼児的な意匠をまとってあらわれるだろう」。それは、市民社会という「象徴秩序」に参入する以前の「幼児」のような存在だろうからだ。

 

 端的に言おう。中上が問おうとしたのは、「大逆」事件というが、そもそもなぜ「王殺し」は「悪」なのかということにほかならない。中上は、「大逆事件=王殺し」に対して、秋成よろしく、「それ何事かは」(それは何だというのだ)と言っているのである。

 

(続く)