デトロイト(キャスリン・ビグロー)

 「銃はどこだ!」「発砲した奴はどいつだ!」「言わないとまた死人が出るぞ!」
 壁に手をついたまま、銃を体につきつけてくる警官たちの怒声を背中に浴び続ける。一人一人別室に連れこまれリンチを加えられる。

 『ハート・ロッカー』、『ゼロ・ダーク・サーティ』にこの新作と見てくれば、ビグローがやりたいことは自ずと明らかだ。永遠に続くのではないかと思うほど、じりじりするような緊張感を極限まで引き延ばし、観客に「これが戦場なのだ」と体感させること(本作のセリフで言えば「これがデトロイトだ!」)。映画館の客席を、まさに「ハート・ロッカー」(=苦痛の極限地帯、棺桶)と化すこと。

 実際、現在もなお、白人警官による黒人への暴力や殺人が耐えない以上(現在公開中の『スリー・ビルボード』にも、「警察は黒人いじめに忙しくて、何も仕事をしていない」というセリフが出てくる)、今作は、1967年デトロイトから50年たっても事態は何も変わっていないことを如実に示している。

なるほど、実際警官に対する発砲はあった。陸上のスターターのようなおもちゃの空砲で。だから、いくら探そうとも、彼らを尋問しようとも、銃は一向に出てこない。だが、銃は「必ず存在しなければならない」のだ。ここでは、あらかじめ黒人は、銃で発砲すると「想定された主体」(ラカン)なのだから。終わりなき尋問が、拷問のごとくエスカレートしていく。

 これこそビグロー的な主題であろう。この監督は、『ハート・ロッカー』で、大量破壊兵器は「必ず存在しなければならない」とばかりに勃発したイラク戦争を描き、『ゼロ・ダーク・サーティ』では、9・11テロを起こしたビン・ラディンは、そこに「必ず存在しなければならない」とアジトに踏み込む特殊部隊の姿を描いた。

 果たして、大量破壊兵器ビン・ラディンは本当に存在したのか。いや、そんな理性的な懐疑を吹き飛ばす「行動力」が「アメリカ」というものだ。「それ」は「必ず存在しなければならない」し、事後的には「存在した」こととなる。「これがアメリカだ!」。

 それが世界の警察たる「アメリカ」というものだった。だが、知られるように、アメリカは世界の警察から下りた。おそらく、今作でビグローが、1967年デトロイトに戻ったのもそのためだろう。そこには、銃は「必ず存在しなければならない」と躊躇なく「行動」する警官たちが、いる。本作のタイトルは、デトロイトの「暴動」ではなく、あくまで「デトロイト」でなければならない。これがデトロイトだ! これがアメリカだ!

中島一夫