ニックランドと新反動主義(木澤佐登志)

 

 

ニックランドとCCRUがこうした冷戦終了後の90年代に現れたのはその意味で示唆的である。歴史の終わりの中で、共産主義とは別の形で未来を思考するとはどのようなことなのか。加速主義は資本主義リアリズムのヘゲモニーが確定した時代、言い換えれば共産主義が不可能になった時代における最初のユートピア思想なのである(p178)。

 

 まあ、私がよく分かっていないのだろうが、「加速主義」なるものが、資本主義の枠内で資本主義を「加速」させることなのに、どうして資本主義のオルタナティヴたり得るのかが、ついに分からなかった。

 

 一読して浮かび上がってくるイメージは、不謹慎を承知でいえば、アクセルが戻(せ)らなくなった高齢者ドライバーの車のような、はたまたトニースコット『アンストッパブル』の暴走機関車のごとき、技術の「せきたて」(ハイデガー)に対する不可能な追いつけ追い越せ、だ。

 

 かつて津村喬は、「ぼくは十分に早くあったろうか」という浅田彰の「加速主義」的な「逃走=闘争」を、「走ることの快楽は、もっぱらゆっくり走ることにある」と批判した(「〈逃走〉する者の〈知〉――全共闘世代から浅田彰氏へ」(1984年9月「中央公論」)。ランニングではない、「ジョギング・ブームは、「ヴェトナム」へのアメリカ人の総括だった」と。

 

 これはこれで、気功やスローライフに行き着く気がしないでもない。だが、そこで津村が「競争のために身体を使う時、必然的に身体は畸形化される。外側のモノサシに合わせて、身体を切りとらねばならないからだ」と言っているのはその通りだろう。その帰結は、例えば長濱一眞が言うポストヒューマンの「魑魅魍魎」=サーバント(だがいったい誰が「主人」なのだろう)の姿か(「週刊読書人」2019年6月7日号「論潮」)。働き方改革とやらで残業が駄目となれば、今度は足りない分は朝4時に起きて「副業」をせよ、いやコマ切れの余暇は「投資」だ、と。

 

 これほどまでに「加速」に駆り立てられた先に、「クラッシュ」(ヴィリリオ)以外の何かあるのだろうか。とうに原発はクラッシュしたというのに。もはやクラッシュは潜在的にも顕在的にも常態化しているので、クラッシュまでもが資本主義的に先延ばしに感じられているだけだ。

 

 ということは「加速主義」とは、ハーヴェイやシュトレークなど「資本主義の終焉」論の手の込んだ一ヴァージョンなのだろうか。加速の果てにクラッシュで終焉。だとしたら、いかにも「暗黒」なヴィジョンだ。さすがに、そんな単純な話ではない?

 

中島一夫