大杉重男氏の批判に触れて

 ブログの拙稿(最近の中上健次についての記事)に対する大杉重男氏の批判

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を読んだ。

 大杉氏が言うように、氏と私との違いのひとつは「王殺し」の捉え方だろう。大杉氏は、実際に(リアルに)王が殺されていないならば「王殺し」と呼ぶべきではないと言う。さすがに「自然主義リアリズム」の人である。

 

 大杉氏の考えは、本人は否定するだろうが、27年テーゼに近い。明治維新は不十分な革命であり、したがって社会主義革命の前に「王殺し」を文字通り完遂するブルジョア革命が先行しなければならないという、いわゆる「二段階革命論」だ。もちろん、二段階目が抹消された冷戦終焉後の現在においては、もはや二段階目なき二段階革命論であるが(大杉氏も、自身のブログ掲載の「東アジア同時革命についての走り書き的覚書」で、自らの革命論を「これは二段階革命論ではない」と否定している。私はまだ、氏の革命論についても、氏の言う「東アジア専制主義」についても、それらに言及できるほど読み込んではいないが、それが冷戦終焉後の革命を模索する試みであることは理解している)。

 

 なるほど、大杉氏は一貫している。明治維新も、大逆事件も、敗戦後も、日本においては王殺し=ブルジョア革命はなかった、と。その意味で、日本はまだ「近代」の何たるかを本当は知らない、と。

 

同様に私たちは共産主義とは何か、いや資本主義とは何かすら知らない。民主主義も自由主義も知らない。知っているのと思うのは錯覚に過ぎない。東アジアの漢字文化圏の人間がそれを知るのは、現在も日本・朝鮮・中国に国境を超えて厳然と機能し続ける東アジア的専制主義の構造を真に廃止した後である。(「東アジア同時革命についての走り書き的覚書」)

 

 そして、「自然主義」文学こそが、その現実に対して最も対峙し肉迫したのだ、と。

 

しかし明治において日本の「自然主義」文学が示したのは、明治維新が「革命」ではなかったこと、近代日本が依然として東アジア的専制主義の軛の下にあるという現実だった。「自然主義」文学はその現実を変える方法は示せなかったが、少なくともその現実だけは手放さなかった。

 

 大杉氏は、「「自然主義」文学は「大逆」的だったからこそ、批判された」、「私の考えでは、近代日本文学の「象徴秩序」は、むしろ「王殺し」殺しとしての「自然主義」殺しによって成立した」と言う。だが、本当に「自然主義」は外から「批判され」、「殺」されたのだろうか。「その現実を手放さなかった」けれども、「その現実を変える方法は示せなかった」原因は、「自然主義」自体に内在していたのではなかったか。

 

 いわゆる「実行と芸術」、「実行と観照」の問題である。「大逆」事件の衝撃の中で書かれた石川啄木の「時代閉塞の現状」(一九一〇年)は、「自然主義」自体が「観照」へと退き、「実行」と切り離されてしまったことで、もはや「時代閉塞」を打ち破る力がないという批判であった。その後の啄木の転回は、要は「自然主義」への期待が裏切られたことによっていよう。あるいは、平野謙が、あれほどまでに「実行と芸術」、「芸術と実生活」、「政治と文学」というように、近代日本文学史において対立をなす二項間の距離を追っていかねばならなかったのも、同様な問題意識に基づいていたといえる。

 

 そして、その問題は、大杉氏自身の言葉にも及んでいると思われる。「私は、絓氏と同様、そして氏よりも積極的に、幸徳秋水や菅野すが子の文学的分身として、田山花袋島崎藤村・岩野泡鳴・徳田秋聲らを考えている」、「「自然主義」文学は「大逆」的だったからこそ、批判された」に見られる「文学的分身」や「「大逆」的」という言葉がそれである。花袋や藤村らは、実際には幸徳や菅野ら「大逆」事件の「首謀」者ではなかったがその「文学的分身」であり、したがって「大逆」そのものではないが「「大逆」的」ではある――。だが、その「リアル」と「分身」の距離こそが、啄木などには大問題であった。

 

 自然主義が「日本の「封建的」現実を描くこと自体が「大逆」だった」と大杉氏が言うとき、両者の距離は最大となる。自然主義が「日本の「封建的」現実を描くこと」で「日本の文学的伝統を後戻り不能なまでに破壊」する(すなわち、先行する権威や伝統=父を、敵として打倒する=父殺し)という「大逆」を犯したとする評価は、先に見た「大逆」を実際に「王殺し」したか否かとザッハリッヒに捉える自らの言葉を裏切っているように思える。やはり、「「封建的」現実を描くこと」や「文学的伝統」を「破壊」することは、実際に「王殺し」することから遠く離れているように見えるからだ。

 

 大杉氏は、「自然主義」文学は、志半ばで殺されさえしなければ、それは実際に「王殺し」を敢行し得たと言いたいのだろうか。「自然主義」を象徴界ではなく「現実界と結びつける」というのはそういう意味なのだろうか。

 

 大杉氏の批評が、そのように自然主義をあえて過大評価し、その可能性を最大限に引き出そうと試みようというのなら、私もそれが「批評」だと思うので、分からないではない。だが、やはり私は、「日本の「封建的」現実を描くこと」や、「文学的伝統」を「破壊」することによっては、決して「大逆=王殺し」には到達し得えず、そのことに「描写」や「リアリズム」の問題があり、また「王殺し」の問題があると考える。言い換えれば、鷗外の水準で「大逆」事件を「王殺し」として思考した「自然主義」文学者が果たしていたのか、甚だ疑問に思うと言ってもよい。

 

 百歩譲って、たとえザッハリッヒに「王」が殺された(打倒された)として、それによって天皇制が崩壊するとは思えない。それは「金」が殺されて「貨幣」になったとして、そうした即物的なレベルでの「死」によっては、一向に資本制が崩壊しないことと同型である。

 

一見したところでは、ジャコバン主義者は、中でもマルクスが『資本論』第一章の脚注で指摘した錯覚に屈していたように見える。「王であること」は、王の人格の直接的な生まれつきの固有性ではなくて「反省—の―規定」であることを、彼らは見逃しているというものである――つまり王が王であるのは、彼の臣下が彼を王として扱うからで、その逆ではないということを、見逃しているというのである。こうしてこの錯覚を除く適切な道は王の殺害ではなく、或る人物が王という資格を獲得する社会関係の編み目の崩壊なのである――こうした象徴の編み目が遂行力を失うや否や、突如分かることは、それまでこれほどの魅惑を惹き起こしていた人物が実際には並の個人であるということである。我々はこれまで象徴機能に嵌め込まれていた物質的な残余に直面させられるのだ。

 

〔…〕言い換えると、王の首をはねることは根本的に余計であり、かつまた王の肉体の破壊というそのことによってかえって王のカリスマ性を肯定する恐るべき冒涜でもあるという、逆説的で矛盾した印象を避けがたいということである。(スラヴォイ・ジジェク『為すところを知らざればなり』鈴木一策訳)

 

 「王」はザッハリッヒな一人物ではなく、いわゆる「もの」(ラカン)としてあるという問題である(おそらく、こうした「王」の捉え方自体に大杉氏は反対なのだろう)。私はこの「もの」を、「例外状態」における「主権」(シュミット)や、法を「措定」する「暴力」(ベンヤミン)の問題として捉え直すことで、より問題は明確になると考えている。たとえ、ザッハリッヒに「王」が殺されても、なおどこかに残存するのが「主権」(啄木の敗北は、これを「強権」と見誤ったことによるだろう)の問題である。「ジャコバン主義者」を悩ませた、王殺し「後」の問題である。

 

 「ジャコバン主義者」にとって、常にすでに殺されているのに死なないのが「王」であった。それは「王」がザッハリッヒな位相になかったことを意味する。彼らは、中上の「秋幸」さながら「違う」と言いたかったはずである。起こっているのに(不可避)、決して起こらない(不可能)のが「王殺し」なのだ。

 

 大杉氏が、日本にはフランス革命=王殺しはなかった、(君主なき)共和制もなかっ  た、したがって民主主義と言っても欺瞞である、と言いたいのであれば私も同意する。だが、それは同時に、「王殺し」が、決して実際に王が殺されたか否かでは捉えられないことをも意味する。それこそが、王殺し「後」の世界に露呈した問題であった。

 

 「大逆」事件とは、「王殺し」の「不可避」性を示そうとした幸徳や菅野が、結果的にその「不可能」性をも証してしまった事件であったといえる。重要なのは、その「不可能」性が、決して幸徳や菅野が殺されたことによるものではないことだ。すでに事態はザッハリッヒな位相にはなかった。鷗外が「かのように」と呼んだのはそのことである。

 

中島一夫