神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その3

 ルマータが、他の観察者(地球人)と決別するという作品の展開は、また、ロシアのみならず日本の1930年代をも想起させてやまない。当時の日本文学を席巻した「芸術と実行」や「政治と文学」といった問題である。

 平野謙は、中野重治と「政治と文学」論争を交わすことになったのは、亀井勝一郎の影響だと言っている(『文学・昭和十年前後』)。亀井の『転形期の文学』や『文学における意志的情熱』を読み、自然主義文学における「芸術と実行」という問題と、プロレタリア文学の「政治と文学」とがつながったのだ、と。

田山花袋らが苦しんだ実行者と観照者の問題は、そのまま次元をかえて亀井勝一郎の体験者と表現者の問題としてよみがえっている。この問題を明瞭に私に悟らせてくれた人も、亀井勝一郎以外になかったのである。

 平野が言うには、亀井は、小林多喜二の死やプロレタリア文学作家同盟の解散を、プロレタリア文学の敗北と受け止められずに蔓延っている「観照主義」と「政治主義」とを、ともに乗り越える能動的主体の確立を模索していた。

 「観照主義」は、あいかわらず安全地帯から「「客観的評価」の美名にかくれた一種の傍観的態度」を示そうとする。一方「政治主義」は、「文学以外のもの(政治)に少しばかり手を出してその雰囲気に触れてみる」という、小林多喜二や蔵原惟人の亜流を指す。

 自然主義文学の「芸術と実行」論争から、プロレタリア文学の「政治と文学」論争へ、さらには小林秀雄正宗白鳥による「思想と実生活」論争へ。二項を反転させながら、少しずつ変奏、展開されていった、この「観照=芸術」と「現実=実行」という二項対立のパースペクティヴそのものが、徐々に文学から政治を喪失させ、ついには文学自体の政治性を見失わせていった。すなわち、転向の装置として、より正確に言えば、転向をなし崩しにしていく装置として機能したのだ(この問題を精緻に論じるには、別稿を必要としよう)。

 『神々のたそがれ』の話に戻ろう。ラスト近くで、ルマータは、観察者たちに「地球へは帰らない」と宣言し、こう告げる。「あんたが地球で著作を書くときは、「神でいることはつらい」と記せ」。

 観察者たちは、地球に戻って「著作=芸術」を残せればよいという、まさに亀井のいう「観照者」たちの群れである。彼らは、この惑星で、夜な夜な「酔っ払いの巣窟」で会合を行い、観察の結果を情報交換しては、それが「実行=政治」だと思っている連中だ。そして、観察という「「客観的評価の美名にかくれた一種の傍観的態度」によって著作のネタを仕入れられれば、そそくさと地球へ帰ろうとする。ルマータがうんざりしていたのは、蒙昧な惑星人や汚泥まみれの惑星ではなく、この「観察者=地球人」の方ではなかったか。

 原作では、子供時代のルマータが、「異方性(乗り入れ禁止)」の道路標識を乗り越えて向こう側へと侵入し、骸骨や爆破された橋などを発見してしまう場面がある。そして、エピローグでは、成長してからの彼の行動は、まさに「「観察者」として「異方性」である歴史を逆行し」ていったものだと述べられる。「観照者」たる知識人(インテリ)が、標識を無視して「実行=政治」に足を踏み入れていったことが、この惑星の「歴史」の「逆行」を招いたのだ、と。これは、明らかに知識人の政治参加を否定的に描いたものだ。

 一方ゲルマンは、原作にはないラストを付け加えた。そこでは、もはや貴族の甲冑を脱ぎ捨て、坊主頭になったルマータが、奴隷に首枷を外すよう命じ解放しようとする。それが、決して最終的な解放=革命とはなり得ず、彼の「つらさ」の終わりどころか、また新たな始まりであることなど百も承知だ。にもかかわらず、彼は、自らの手で封建制を終わらせ、この惑星の歴史を次へと歩を進めようとするのである。

 800年後からやって来た彼は、もう唯物史観を信じてはいないだろう。だが、抑圧されている者が目の前にいれば、当然のように解放しようとするのだ。彼は、高み(遠く)から見下ろしているから神なのではない。そう出来る立場にあったのに、決してそのように振る舞わなかったから神と見なされたのである。

 ここでは、「つらく」思いながらも「渦中」にあろうとする者こそが神である。「つらい」のは、神は、本当は「観照=地球」と「実行=惑星」とに分離する以前にしか存在しないのに、両者が分離し、互いに越境しないよう標識が立てられて以降にあえて越境し、汚泥にまみれても「渦中」にあろうとするからだ。ルマータの「つらさ」は、人を必然的に転向(なき転向)へとずり落ちさせていくパースペクティヴ(惑星が半分ずり落ちている冒頭を見よ)=汚泥の中で、ひとりもがいている「つらさ」である。

 それにしても、ゲルマンは、何ととてつもない遺作をわれわれに遺したことか。

(中島一夫