神々のたそがれ(アレクセイ・ゲルマン) その2

 前作『フルスタリョフ、車を!』で、ゲルマンは、スターリンが自らの排せつ物に塗れて死んでゆく姿を描いた。これほどまでに、スターリンの死を惨めに描いた作品もないだろう。

 スターリンの死を、まさにこれこそ「神の死」だとばかりに、即物=汚物的に描いたのである。と同時に、全編泥や汚物に塗れたこの『神々のたそがれ』の世界は、あのとき前作の主人公クレンスキーが、スターリンの腹を激しくさすったあまりにあふれ出た排せつ物に覆われてしまったかのような、スターリンの死後=ポスト・スターリンの世界を描こうとしているように思える。

 本作で「神」と呼ばれる「ドン・ルマータ」は、その神=スターリンの死後、なお神として祭り上げられた男なのである。だからこそ、「神様はつらい」のだ。

 だが、ここで疑問が生じる。スターリンの死は1953年なのだから、本作の舞台は1930年代ロシアではないかと述べてきたことと、それは矛盾しないか。

 ここで主人公「ルマータ」が偽名であり、彼は地球からやってきた「観察者」であるという設定を再び思い起こす必要がある。本物のルマータはすでに死んでおり、彼はこの偽名をこの惑星でもう20年名乗っていたという。おそらくは、この20年というのが、1930年代の粛清の時代から50年代のスターリンの死後までの年月に相当している。まさにルマータは、この20年を「観察」してきたのだ。

 灰色隊から神聖軍団へと軍隊を増強させ、粛清=独裁の暴力をふるってきたのは、ドン・レバ=ベリヤだった。その中で、地球からやってきたドン・ルマータは、革命をあらぬ方向からあるべき方向へとやり直すことを期待された男だからこそ神と見なされたのであり、いわば「そうあったかもしれない神=スターリン」なのである。だからこそ彼は、「ルマータ」という名を反復せねばならなかったのであり、またそのことは、彼が神と見なされることと切り離せないことだったのだ。他の地球人=観察者と違って、彼だけがこの泥と排せつ物に塗れた惑星にとどまろうとするゆえんである。

 では、果たしてこの惑星は、この男によってあるべき方向へと導かれたか。それについては、ルマータと、彼が救出した医者の「ブタフ」との問答がすべてを語っていよう。

ブタフ「人々にふんだんに与え、彼らを分け隔てる垣根を取り払ってもらいたい」
ルマータ「そんなことをしても、強者が弱者から奪い取るだけだ」
ブタフ「強く無慈悲な者を罰したまえ」
ルマータ「弱者のなかで相対的に強い者がそうした連中にとって代わるだけだ」

 言うまでもなく、ここでブタフは社会主義革命の貫徹を望んでいる。だが、一方ルマータは、いくら平等に均そうとも、強い者と弱い者との差異は残る、したがって権力=暴力はなくならない、と。

 神様はつらい…。おそらくそれは、革命を成就した者たちだけが痛感しただろう、革命後における世界運営の困難の表明なのだ。そして、ラストでルマータが奏でる悲壮なサックスの音色は、それでも革命を追い求めていかねばならない神の嘆息だ。

 だがルマータは、にもかかわらず「地球へは帰らない」と宣言するだろう。このとき彼は、観察者という立場をかなぐり捨て、革命家として渦中で実践することを決意する。この決意と宣言には、卑しく唾棄すべき人間どもに、嫌と言うほどうんざりさせられながらも、決してあきらめない革命家の姿がある。

 だが、その姿は、見る者を鼓舞するような勇ましいものではあり得ない。あのサックスの音色が、聴く者の「お腹を痛く」させてやまなかったように、このときゲルマンは、またあの革命と神の逆説に憑りつかれたに違いないのだ。人は、革命を成し遂げたから神になるのか、それとも神になることでしか革命を成し遂げられないのかという逆説に。

(続く)