子午線 vol.3 原理・形態・批評

子午線 vol.3―原理・形態・批評

子午線 vol.3―原理・形態・批評

 「大阪都構想、是か非か」をめぐる住民投票が終わった。特徴的だったのは、それが勝者も敗者もともに「民主主義」を寿ぐという、民主主義の「祭」だったということだ。

 選挙という選挙の投票率が低下の一途をたどり、議会制民主主義が機能不全に陥りつつあったなか、最後まで勝敗が見えずに盛り上がった今回の住民投票は、「選挙」自体の起死回生のカンフル剤となった。おそらく、これをテストケースとして国民投票への布石となろう。政党選挙が、いや既成の政党そのものへの不信感が広がっていくなかで、今後「民主主義」がどのように延命をはかるのかが示唆された出来事だった。

 そんななか、雑誌『子午線 原理・形態・批評』は、今や孤軍奮闘といえよう。基本的に、詩と批評の雑誌であるそれは、もはやそこにしか文学などあり得ないとばかりに、明らかに「小説」(散文芸術)が形成する市民社会=民主主義の「外」をめがけている(特に3・11以降の「詩壇」が、(小説に比べると相対的に)急速に天皇や神話(のもとでの「復興」)へと回帰しようとしているように見えるのも、本来、市民社会=民主主義の「外」にある、自らの浮動的な「存在の耐えられない軽さ」にまさに耐えられなくなってきているからだろう)。

 今回(vol.3)の花咲政之輔インタビューには、本誌のそうしたスタンスが明確に表れていよう。今どき、蔵原惟人と中野重治の「芸術大衆化論争」を梃にして、自然生長性と目的意識性やら前衛党の問題やらが話題になる文芸誌が他にあるだろうか。いや、述べてきたように、民主主義の延命がはかられる現在にあっては、それは「今どき」どころか「今こそ」なのである。

 芸術大衆化論争は、蔵原と中野がそれぞれの主張を生産的に戦わせたというよりも、「大衆」というファクターの登場による、プロレタリア芸術陣営の動揺と分裂ぶりが露骨に表れたものだった。論争そのものは、中野自身が総括したように「具体的な解決に寄与する所なく、謂わばそれ自身の中に迷い込んでしまった」(「解決された問題と新しい仕事」)。したがって、問題は未解決のままその後に持ち越され、「政治的価値」か「芸術的価値」か(平林初之輔)という「芸術的価値論争」へと引き継がれていくことになる。

 花咲が(また『子午線』が)、今あえてこの論争を導入しようとするのは、音楽をはじめ芸術に、もはや「政治的価値」など存在しないかのような現在の状況そのものが、実は「自然生長性」がすべてを覆い尽くしているという「政治的」な効果によるものだということ、言い換えれば、政治的に無味無臭な「自然生長性」そのものの「政治性」を可視化させるためだろう。

 もちろん、それが極めて困難であることは、花咲自身百も承知のうえだ。

普遍的な理論としては今、言ったようなこと(注―蔵原の言う「高度なプロレタリア芸術」と「直接的なアジプロ」の区別と使い分け)を考えてますけど、結局、自分がやるとなると、普通にやるしかない(笑)。文化政策を論じる観点に立てば今の話が正しいと思ってるけど、拠るべき運動体も党もないままに、東京西部でおっつつかっつつバンドをやっているサブカルおじさんの群れという貧弱な主体的条件の下で言うと、情けないことではありますが、現状それはできない。そういう意味で極言すれば、現在の否定的な状況の下では芸術至上主義的にやるしかない。んん、これはでも日和見主義というか極左主義というか、ニヒリだよね。もっと粘り強くやらんとね。まぁ現状ではせいぜい反体制的、左翼的な表現をするぐらいの話にしかなってないっす。本当に死にたいなるくらい内心忸怩たる思いですが。一重に力量不足の己を恥じるのみです。

 だが、学生運動を30年以上続けてきた花咲以上に「粘り強く」やっている者もいない。ほぼ同じ年で同じ時期に同じ大学にいたはずの者としては、今回のインタビュー「私を裏切った人たちの群れと歩く」は、まさに「裏切った」側の人間として、読んでいて苦しくなるものだった(大学の教員であることに、自負や誇りを抱いている専任教員の多くは、自らが非常勤講師や学生を構造的に抑圧している「裏切った人たちの群れ」なのだいう認識すら持っていないように見えるが)。

 そのような人間ですら、花咲の言う「本当に死にたくなるくらい内心忸怩たる思い」を、「せめて」とばかりに共有しているといってよいだろうか。ましてや、ずっと学生運動に踏みとどまり続けてきた花咲の「忸怩たる思い」は? 想像を絶するというほかはない。

 だが同時に、花咲は、活動家らしい楽天性を見せる。「外部注入の正しさといっても難しいのは、労働者にプロレタリア意識を注入する外部としての“前衛党”がないわけですよね」と問われ、花咲はこう答える。「だけどマルクス主義の理論はあるわけだから」。

 この、何ともあっけらかんとした、当たり前と言えば当たり前の言葉は、「裏切った」者にはある種の解放として響く。だが一方でそれは、「マルクス主義の理論」があるかぎりは、「裏切った」のはソ連がないからだ、党がないからだというような言い訳は、もうできないということでもあるのだ。

 今「党」と言うのは、カルトだろうか。花咲は言う。「だいたい資本主義自体がカルトなんだから、人間はカルト的なものがなくても存在できるのか、という問題を避けているんだよね。カルト的になるしかない状況もあるわけで、そうしないと資本主義社会の中でたゆたうことしかできない」。「そこは同じカルトなら左翼カルトを選ぶべきですよ」。

 期せずして、この前の『週刊読書人』(5月15日号)の、市田良彦王寺賢太の対談「アルチュセール再考」においても、党が話題になっていた。今改めて、マルクス主義という「ましな」カルトがアクチュアルになってきているとしたら、それは、民主主義の「外」がリアルになってきているということと、決して別のことではない。

中島一夫