資本主義リアリズム――「この道しかない」のか?(マーク・フィッシャー)その3

 かつて社会主義リアリズムというのがあった。ロシア革命を成就したソ連においては、社会主義がリアリズムたり得た。したがって、それが必然性であり普遍性であった。だが、革命を実現していない資本主義国(例えば日本)に移植された時、それは途端に矛盾を露呈した。当たり前だが、そこでは社会主義はリアリズムではないからだ。

 だから、1935年に久保栄神山茂夫によって口火を切られた社会主義リアリズム論争は、当初から混沌、混乱した様相を呈した。ここでは詳述できないが、社会主義リアリズム論争の核心は、社会主義的か革命的(反資本主義的)かをめぐっていた。すなわち、平野謙も言うように、これは前年からのマルクス主義文学者 対 能動的インテリゲンチャの「行動主義文学論争」や、宮本顕治の「政治の優位性」論からの離脱へと舵を切った林房雄による「独立作家クラブ」の提唱、さらには反ファシズム問題を前景化させていく「文芸懇話会問題」などと文脈を共有していた。

 平野はそれを、党=蔵原惟人や宮本顕治による「イデアールな」指導方針と、それに抵抗する「レアールな」戦術との対立と捉えた。この対立が、しかし反ファシズムのための社会主義者とリベラルの提携、共産党社会党の共同戦線たる、いわゆる人民戦線へとつながっていくのである。

 すなわち、1932年のコップ弾圧、33年の小林多喜二虐殺、34年ナルプ解散という流れの中で移植されていった。社会主義リアリズムは、当初から人民戦線問題をはらんでいたといえよう(そもそも社会主義リアリズムの紹介や移植は、『プロレタリア文学』や『プロレタリア文化』といった雑誌ではなく、主に『文化集団』にて行われた)。裏を返せば、栗原幸夫も言うように(『社会主義リアリズム論争の背景』)、それは党という普遍性の再建運動の一環だったのである。

 今さら、もはや顧みられることもない社会主義リアリズム論争を懐古したいわけではない。繰り返すが、「資本主義リアリズム」への対抗には、資本主義と異なる「普遍性」が不可欠である。それは好むと好まざるとにかかわらず、「党=普遍性」を再建する以外にないだろう。そして、これまた先にも述べたように、普遍性=必然性が崩壊したなら、資本主義もまた偶然性でしかないはずなのだ。

 社会主義リアリズムとは、一見そう思えるような党の指導方針の押し付けではなかった。資本主義国における党は当初からひび割れており、むしろ社会主義リアリズムの導入は、その再建運動だったのである。であれば、取り巻く状況はまったく違うにもかかわらず、事態はまったく変わっていないといえないだろうか。

中島一夫