「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その4

 監督協会には、東京側からは、内田吐夢小津安二郎清水宏成瀬巳喜男らが、関西側からは、伊丹万作伊藤大輔溝口健二山中貞雄らが参加。それまで日本の映画監督は、各会社に雇われた社員であり、彼らを横断的につなぐ組織を持たなかった。それぞれの会社に分断され、相互の交流も乏しかったようだ。そんななか立ち上がった日本映画監督協会は、表向きは日本映画界の代表たる監督たちが、互いの親睦をはかるとともに、日本映画の向上を目指すということだったが、その背景は次のようなものであった。

 

その素地としては、当時の報道が一様に言及している五社聯盟の存在、映画資本家による従業員への統制の強化に対抗しようとする意識が潜在していたのは間違いない。特に伊丹万作溝口健二にそれが強かったといわれる。当然、資本の側にとって、会社の枠を超えた監督たちの団体結成は最も警戒すべき動きであった。それだけに監督協会は当面、親睦団体を標榜したのだろう。

 小津安二郎は監督協会の設立、運営に極めて積極的にかかわっていく。五月三日に熱海の錦城館で開かれた総会で、彼は山中、成瀬、内田とともに研究部委員に就任、また彼がデザインした協会マークを、会員の作品のタイトルに使うことが決定した。フィルムのコマを模した横長四方形に8の字を横にして収めたもので、映画が第八芸術と称されたことに由来する。このマークをタイトルに出すことを松竹に黙認したが、日活では当初反対する動きもあった。(田中眞澄『小津安二郎周游』)

 

 それは、「映画資本家による従業員への統制の強化に対抗しようとする」、「会社の枠を超えた監督たちの団体」であり、いわゆるクラフト・ユニオン(職能組合)のような組織だった。繰り返せば、時は非常時、二・二六事件戒厳令下である。ただでさえ、団体の結成はことのほか警戒される時期だっただろうが(だからこそ「当面、親睦団体を標榜した」)、その前年の一九三五年、監督協会設立を考えるうえで不可欠な出来事が起こる。長くなるが引用しよう。

 

それはさておき、この時期に監督協会が誕生した意味を考えるとき、その関連では従来殆ど考察されて来なかった論題があったのに気がつく。それは大日本映画協会の存在である。

 この半官半民を謳った団体は、一九三五年十一月に発足したが、実質的に推進したのは内務省であり、一種のカムフラージュとして民間人を取り込みながらも、結局は内務省主導による映画統制、映画国策の遂行を意図していたといえる。〔…〕

 即ち、この大日本映画協会は、一九三三年(!)二月八日の衆議院に岩崎亮が提出した映画国策建議案を承ける形で、内務省主導で遂行した一連の動きが到達した一つの段階を示すものであった。国家権力を背景にしているだけに、映画作家たちにとって、それは眼前の敵である映画資本家たちの組織以上に、映画資本家に加え、菊池寛や小野賢一郎といった有識者も名を連らねたこの協会は。無気味に思えたのではなかろうか。監督協会が発足当初『日本映画』への執筆拒否を申し合わせたのは、故なきことではあるまい。

 

 「映画の民衆に及ぼす悪影響を排除し、以て健全なる国民生活の確保に資すると共に、風教の保持刷新に貢献」すること。この一九三三年=非常時からじわじわ遂行されてきた、内務省主導の映画統制、映画国策。作家たちにとっては、「眼前の映画資本家たち」以上に、この半官半民の「大日本映画協会」の存在がやっかいだったことは想像しやすい。国策遂行に向けて統制されていく映画を、国家と資本の結託から守らねばならない――。そのために小津は、監督協会の設立、運営に積極的に関わっていくのである。

 

監督協会の結成には、そのような映画界の外側の世界からの圧迫感に対する暗黙の抵抗感覚が潜在していたように、読み取れないでもない。そして監督協会結成に呼応するかのように、シナリオ作家協会、映画技術者協会(従来のキャメラマンだけの組織だけではなく、録音や照明の技師も含めた)が次々に組織された。そこに、当時の論壇の議論の焦点の一つであった〝人民戦線〟的連帯すら(それが幻想であるとは承知しつつも)連想したくなるほどである(この年七月、スペインの内乱がはじまることもあって)。もっともこの年の終りには、監督協会から八名の監督が大日本映画協会の役員に選ばれた(理事――池田義信、内田吐夢評議員――村田實、溝口健二山本嘉次郎、吉村操、伊藤大輔衣笠貞之助)。それは監督たちが国家権力に取り込まれたというよりは、国家権力の側で彼らの存在、監督協会という形での連帯を無視できなかったことを意味していたのではなかろうか。

 

 田中が「幻想であると承知しつつも」と断っているように、「党」とは無縁だった映画協会に、「人民戦線」を連想するのは「幻想」だろう。だが、当時の小津が、どうしようもなく、そうした時代的文脈の渦中にあったことは否めない。少なくとも、国家権力が、すぐさま監督協会を大日本映画協会に吸収しにかからねばならなかったほどには、この組織的な連帯は、シナリオ作家協会や映画技術者協会へと「戦線」が拡大していったことかれしても、ある種の政治的実践に見えていたのではないか。

 

 言うまでもなく、映画という芸術は、一人の芸術家による実践ではない。一つの作品は、多数の人間の組織化された共同制作たらざるを得ない。ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」(一九三五年)で、映画を大衆社会化に即した芸術、それは例えば、従来の絵画のようにパトロンではなく、不特定多数の群集に向けられた複製技術時代の芸術様式だ、と述べた。ほぼ同時期に、美学者の中井正一は、「委員会の論理」(一九三六年)で、集団的な制作者と集団的な観客とを媒介する集団芸術としての映画を通して、大衆社会をある種自主管理の下の取り返そうとする新たな「委員会=政体」を構想した。この中井の試みは、非常時の滝川事件以降の『美・批評』、『世界文化』、『土曜日』といった同人誌やタブロイド新聞による日中戦争勃発前後の「日本人民戦線」(平野謙)から地続きの、人民戦線的実践にほかならなかった(長濱一眞『近代のはずみ、ひずみ』参照)。

 

 もちろん、すでに一九三二年あたりからフランスやスペインの人民戦線は活発化しており、それを受けて、一九三五年八月のコミンテルン第七大会における、いわゆる「ディミトロフ決議」によって、反ファシズムの幅広い人民統一戦線は提示されていた。したがって、先の田中眞澄のように、小津らの監督協会結成もまた、映画という大衆社会の媒介を、それをもって国民の統制をはかろうとする国家や資本の側に譲り渡さんと組織的に防衛していこうとする人民戦線的な実践と捉えても、歴史的な文脈からしてあながち的外れでもないだろう。

 

 小津がデザインし、その後も使用されることになる監督協会のマークは、映画が第八芸術と称されたことを受け、フィルムのコマを模した横長四方形の内側に、横倒しになった8の字が描かれている。それは、横のつながりが∞=無限大に展開し続いていくのが、複製技術時代の集団芸術たる映画という芸術だという理念がこめられていたのではないか。

 

 その後、監督協会は、戦時体制の進行に吸収され、一九四二年に解散し、戦後しばらくは松竹、東宝大映の各社撮影所の監督部会に分かれ、なかなか協会の再建には至らなかったが、一九四八年に事態は一変する。

 

事態が急転回したのは、一九四八年春、東宝砧撮影所で会社側が共産党系分子の排除を目的とする人員整理案を提示したのに端を発した、所謂『東宝大争議』に於てであった。会社側と組合側の交渉が決裂し、四月十六日に二百七十九名(「キネマ旬報」による)の馘首が通告されたその中に、四名の監督も含まれていた(監督は契約者だから再契約拒否)。これに対し、五所平之助他十四名の監督が「監督協会」を結成し〔…〕、会社側との折衝に当る一方、他社の監督たちにも呼びかけて、全映画監督の結成の場として、また映画芸術と映画監督の生活権の擁護を目標に掲げたクラフト・ユニオン(職能組合)的性格を持つ、監督協会設立準備を提案したのであった。〔…〕その準備委員会が開かれた。出席者は東宝から成瀬巳喜男豊田四郎黒澤明谷口千吉山本嘉次郎。松竹から小津安二郎、渋谷實、木下恵介大庭秀雄瑞穂春海大映から牛原虚彦

 

 戦後の監督協会再建においても指導的な立場にあった小津は、このとき次のように主張したという。「小津安二郎氏は戦前の監督協会に対する反省をも含めて、東宝の監督諸氏が、必要に迫られて勝手に協会をつくり、それに参加せよと呼びかけるのは失礼である。日映演とは何らの関係もない大義名分の通った監督協会とすべきだ。だから最初の中は親睦機関でいいと思う」(牛原虚彦『虚彦映画譜50年』一九六八年)。「日映演」とは、日本映画演劇労働組合で、東宝大争議を会社側と激しく戦った。小津の目論見は、この労組や東宝問題とは切断された、クラフト・ユニオン=職能組合という「大義名分」を、今度は明確に掲げて再結成しようというものだった。おそらく、東宝大争議で問題になった共産党系か否かを超えた、横断的な連帯を目指すという「大義名分」を実現しようとしたのだろう。レッドパージといってもよい東宝大争議に対抗しようと、今度は明確に「人民戦線」的連帯を打ち出したのである。

 

 注目すべきは、この監督協会再建の一九四九年前後には、小津が、四八年に熱海へと居を移した志賀に、何度も会いに行っていることだ。この時期は、広津和郎なども熱海におり(言うまでもなく、まさに一九四九年公開の『晩春』は、広津の『父と娘』を下敷きにしている。原作ではない)、画家の安井曾太郎や尺八の福田蘭童も含めて、「この時期の熱海には、志賀直哉を中心とする芸術家・文化人のサロンが現出していた」ようだ。

 

 もちろん、志賀直哉と交流をもつことが、直線的に小津を人民戦線に向かわせたわけではないだろう。だが、平野謙の人民戦線論を待つまでもなく、プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの人民戦線への道の背後には、なぜか陰に陽に志賀直哉が存在しているのだ。

 

 例えば、平野の人民戦線論の核心に存在する批評家・井上良雄は、志賀直哉プロレタリアートを強引にも重ね合わせ、そこに究極の自己救済の道を見出そうとした(「芥川龍之介志賀直哉」一九三二年)。また、平野が人民戦線の示唆を読もうとした小林秀雄私小説論」の「社会化した私」が、「思想と実生活」が結合した志賀直哉を、不可能な理念として背景にもっていたことは言うまでもない。さらに、そもそも小林多喜二が、目的意識的に党へと向かう前夜に志賀直哉を訪問し、その「実践者」と「表現者」の古き合一者に対する心からの訣別を行うとともに、新しき合一へのひそかな決意表明を行おうとしたことは有名であろう。小林多喜二は志賀を、いわば「分離・結合」(福本和夫)へのスプリングボードとしようとしたのである。今なお、青年インテリゲンツィアの政治的実践を考えるうえで、無視することはできない「神話」だろう。

 

 京都の独文を出た井上良雄は、北川桃雄らと京都在住の同人雑誌「リアル」を発刊し、治安維持法違反で検挙される(実際には、このとき井上はすでに「リアル」を離れていたようだ)。検挙された井上の「手記」の大部分は、『暗夜行路』論で埋められていたという。この「リアル」検挙が一つのきっかけとなって、「世界文化」などの人民戦線事件にまで波及していくのである。

 

(続く)