杉野要吉先生を悼む

 院生時代にお世話になった杉野要吉先生が亡くなった(三月四日)。

 奥様もご高齢のため、弔問等は一切遠慮いただいているという。

 

 先生の研究の核心は、中野重治平野謙、すなわち転向論だろう。「転向」など誰も見向きもしなくなったにもかかわらず、いまだに「転向」の問題にぐずぐずとこだわっているのも、先生の影響としかいいようがない。

 

 私は杉野先生の転向論を、必ずしも肯ってはない。先生の中野批判、平野批判は、一言で言えば、彼らが「死の恐怖」(ヘーゲル)から転向したことの「やましい良心」(ニーチェ)を暴こうとするものだった。すなわち、それらは「自責」の文学、「自己弾劾」の文学なのだ、と。

 

私は中野さんに、七九年の亡くなられた年の春ですが、お宅で菊池寛宛の手紙のこともじつは遠慮なくおたずねしています。そのときのことですが、私がこの問題について質問をしはじめるや、それまでくつろいで話をしていた中野さんが急に緊張しだして、姿勢を正し、背筋をまっすぐ伸ばすようにして話されるようになったことを私はいまもおぼえています。茶の間の掘りごたつで向かいあわせで話していたのですが、中野さんが目の前の小皿に盛られた豆菓子を急にせわしなくつまみあげて、ボリ、ボリと歯でかむ動作と音との運動を無意識のうちに休みなく開始されだしたのはそのときのことです。私はこのとき、あの不屈の強い精神の持ち主である中野重治さんが、じつはそれとは裏腹に老いてもなお変わらず持ちつづけているやわらかい詩人の感受性、非常に傷つきやすい激烈な羞恥心の持ち主であることを眼の前にありありと見た気がしました。

 しかし私の読みによれば、『甲乙丙丁』(上巻、一九六九・九、下巻、一九六九・一○、講談社)に収録した作中の手紙でみるかぎり、中野重治はその手紙を、入会の資格を獲得するためにギリギリの線まで国家政策にわが身を近づけ、しかも最後の一線をふみこえない慎重な文章の書きかたで書いています。〔・・・〕また戦中の菊池寛宛文報入会懇請状を中野重治がそのまま作中に提出したとされる『甲乙丙丁』のなかの手紙文もその論中にひいて、私の読みを提出していますが、じつはそのとき、原稿段階の論をふまえてのべた私の判断にたいして、中野さんは、「あれはやっぱり、またもや自分は戦争が続くかぎり筆が絶たれるという当時の危機感のなかで、本当はあともうすこしがんばり切れば道はなんとか開きえたはずなのに、自分には残念ながら展望が持てていなかった。それで結局、やはり誤りを犯した、そういう悔いを残すものになってしまっています」と答えられました。批評家の桶谷秀昭氏は中野重治論で中野重治の文学を〈自責の文学〉と名づけていますが、埴谷(注―雄高)氏が講演で中野重治という文学者をきびしい自己反省・自己凝視・自己弾劾の文学者としてとらえておられるのを、私は基本的に正しいと思います。〔・・・〕

 けっきょく平野謙という批評家は、さきに伊藤整が「藝術家」の本性を自己批評した意味での、まさに「愛情乞食」だったのだといえるでありましょう。〔・・・〕伊藤整に勝るとも劣らない戦時下の経験ゆえに避けられなかった「不安」や「おびえ」、「狼狽する心」を押ししずめようとする「自己防衛」本能から、平野謙は戦後の文壇におけるみずからの「藝術」的成功や効果のためにも、必要ならば戦後の時代や世間的な四囲のものをたとい欺くことをも「手段」としてあえて避けないという、藝術家的エゴを構わず是認する藝術方法論上の論理を、伊藤整の藝術理論にもかさなりあう、まさに「愛情乞食」的藝術表現者としての衝動にうながされて、戦中の「傷ついたもの」、「後暗いもの」を、戦後の時代にまるだしに告白するのではなく、〈批評〉という名の《藝》のうちに包みこみ、そうすることでアナロジカルに「自己弾劾」する批評家の道を歩いていくことになったのです。(杉野要吉「平野謙における戦中・戦後の問題――論争の立場から――」(一九八八・五・七、講演/二○○二・二・一、完成稿。『ある批評家の肖像 平野謙の〈戦中・戦後〉』所収) 

 

 中野重治の豆菓子の話は、何度となく聞かされた。そのたびに、だが「死の恐怖」から転向した「やましい良心」を「自己弾劾」していったその先には、いったい何があるのだろうと気の遠くなる思いがしたものだ(先生の転向論には、中野のヘルダーリン的な「狂気」、すなわち詩の問題は場所を与えられていない)。

 

 思うに、それは「死の恐怖」を乗り越えた「強い主体=主人」だろう。杉野要吉の転向論は、究極的には「知識人よ、主人たれ、鋼の主体たれ」に帰結する。平野謙小林秀雄の「社会化した私」に見いだそうとした「人民戦線」論を、先生が認めなかったゆえんだ。それは平野の「邪推」を否定したというより、「人民戦線」的な「反戦」への意志を、平野が「おびえ」に対する「自己防衛」から「四囲」を「欺」いた「批評という名の藝」と見なしたのだろう。平野は、そうした屈折した「自己弾劾」を生きたのだと。それが平野の弱さであり、「鋼の主体」たり得なかったゆえんなのだと。だが、そもそも鋼たり得る「核」を喪失したというところから、転向の問題が始まるのではないだろうか。

 

 一時期、平野批判で共闘した江藤淳に初めて会った時、「杉野さんは、文章から察するに、もっとラグビー選手のようなが体の方だと想像していた」と言われたという。これも、酒場などでの定番の話題だった。いつも、まんざらでもない表情で語られていたのを思い出す。ラグビー選手のような鋼の「肉体=主体」という江藤の評価は、先生にとって最高の褒め言葉だったに違いない。

 

 先生の転向論には、やはり「党」の問題が決定的に欠けていたと思う。鋼の主体があり得るとしたら、それを担保するのは「党」だからだ。それがなければ、問題は「政治と文学」(「政治の優位性」か「文学の自立性」か)の、ひいては「知識人」の「人間性」の問題に終始してしまう。言ってしまえば、結局それは「文学」(という転向)の枠内の問題になる。だが、それもまた、先生の仕事を通して見えてきたことだ。

 

 転向の問題は、「大衆」というファクターを導入した吉本隆明「転向論」の登場によって無(害)化された。吉本によって中野や平野ら転向者の「やましい良心」は解放されたが、それは同時に(純)文学をも消滅させた。(純)文学は(「死の恐怖」からの)転向の所産だからだ。後者がなければ前者もない。だから文学は解毒され、単なる「文化」になった。先生にとっては、吉本にも文化にも、もはや用はなかった。逆にいえば、「大衆」という視座にも縁がなかった。

 

 先生の訃報に接して、いただいた中村光夫直筆の色紙を引っ張り出した。「初心」とある。中村光夫論の掲載誌をお送りしたところ、「これは君が持っていなさい」といただいたものだ。研究においても、教育においても、先生ほどスタンスがまったく変わらない(ゆえに時に周囲を困惑させる)方も知らない。「初心」しか存在しないというか、「初心」を体現している方だった。

 

 勤めはじめの頃、よくくだらない人間関係に巻き込まれ、火のないところに煙をたてられた。大学の附属校に勤めていたので、こちらにはまったく興味がなくても、人事に渦巻く欲望の火の粉は降りかかってくる。それで一度窮地に陥った。恥ずかしながら、やむなく先生に相談すると、先生はその足で、相手が先輩だろうが何だろうが、そしてここが肝心なのだが、何の「後ろ盾」も介することなく、敢然と抗議に向かった。それによって丸裸の先生自身、居心地が悪くなることも厭わずに。そこまで先生の瞬発力を予想していなかった私は、かえってオロオロするばかりだった。相手が敵ならいざ知らず、その後も関係が持続していく職場の関係のなかでは、なかなかできないことだ。緑内障認知症に悩まされながら、入院先でも、最後まで「私は書斎に行く」と言って頑として聞かなかったそうだ。ほとんど目が利かず、読んだり書いたりもできなかったにもかかわらず。そんな状況になって、そんなことが、自分に言えるともできるとも思えない。まさに鋼の人であった。

 

 先生は、私の新しい本を、待っていてくださった数少ない一人だった。間に合わなかった。痛恨の極みである。

 

 心よりご冥福をお祈りいたします。

 

中島一夫