「二階」と人民戦線――小津、蓮實、志賀 その5

 井上良雄が、志賀直哉と近代プロレタリアートを結合しようとしたことは、有島武郎『宣言一つ』以来の、インテリゲンツィアのプロレタリアートへの(不可能な)階級移行の問題に関わっていた。だからこそ、あたかも志賀直哉が、共産主義者とリベラルなプティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの共同戦線=人民戦線への架け橋であるかのように見なされたのだろう。この井上の、文学論的ではなく人生論的な決意の表明としての「みずからの裸身を架橋したことにひとしい」志賀とプロレタリアートとの結合を野蛮にも主張した批評が、平野謙の胸を打ったのである。また、小林多喜二が、これから国家権力と直接対峙していかんとするその前夜に、奈良の志賀を訪れ、にもかかわらず全くそれをおくびにも出さずに、暢気な話ばかりして帰ったという「神話」にしても、井上の裏返しとしてだが、後進の胸を熱くさせただろう。

 

 先に触れた、監督協会再建前夜に、熱海の志賀を訪れ、また『月は上りぬ』(監督は田中絹代)や『麦秋』で古都・奈良へと向かった小津の胸中に、果たして志賀をスプリングボードとして、インテリゲンツィアからプロレタリアートへの階級移行に次々と投身していった、これら先達たちの影はあったか、なかったか。

 

 「志賀先生にお目にかかると、いつも、それからしばらく、何とも云えない爽やかな後味がのこって、僕の心のどこかを、涼しい風が吹きぬけます」(小津)。人を政治的行動に向かわせるのが結局人だとしたら、こうした「爽やかな後味」は案外馬鹿にできないのではないか。少なくとも、小津には、志賀のもたらす「涼しい風」が、人民戦線的連帯の実践に向かう追い風になったのである。

 

 一九一九年に広津和郎志賀直哉論を書き、その後芥川龍之介が志賀を絶対視し、それは小林秀雄、井上良雄と完成されていった。この「小説の神様」像は、どことなく本多秋五が蔵原惟人を「神のような人」と称したのを想起させる。だが、それも、中野重治「暗夜行路雑談」(一九四二年)や中村光夫志賀直哉論』(一九五四年)による、志賀の封建的な家父長的性格への批判を経て、伊藤整志賀直哉の方法』(一九五六年)に至ると、志賀の神格性は完全に崩壊した。平野はその過程を、「それらの志賀直哉論の歴史を仔細に検討すれば、それはそのまま近代日本文学をささえてきた文学的インテリゲンツィアの歴史を側面から鮮やかに照明する好古の縦断図をかたちづくるはずである」と捉え、本多の蔵原よろしく、「冗談をいえば、それは徳田球一評価の歴史とほぼ精確に対応している」まで述べている。

 

 したがって、『さまざまな青春』(一九七四年)の時点では、もはや平野も「今日となってみれば、井上良雄のあやまりもまた明らかである」と、はっきりと「あやまり」を認めることになる。だが、井上良雄の示した「プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアの道」を追い続けた平野謙の批評に何か意味があったとしたら、それは、もしこの「あやまり」がなかったら、プロレタリア文学運動など何でもなかったということを示し続けたことだろう。

 

今日からみて、「ナルプ」を中心とするプロレタリア文学運動にどんな重大なあやまりがあろうとも、井上良雄という雋秀な青年インテリゲンツィアをひとたびはまねきよせたといううごかしがたい事実は、やはりプロレタリア文学の卓越を物語るものだと思う。今日たとえば三十二年テーゼの文学的遂行というような面からいくらプロレタリア文学運動を分析しても、その論理的な網の目からそういうプラスはこぼれおちてしまうだろう。もう一度念を押しておけば、「ナルプ」解体前後に「政治主義的偏向」として糾弾されたものこそ、小林多喜二を横死にまでふるいたたせた人間情熱の一源泉であり、しかし、その浪漫的な人間情熱が所詮はプロレタリア文学運動そのものを敗滅させた一原因だったのである。それは楯の両面にほかならない。そういう楯の両面であることの分析からはじめないかぎり、プロレタリア文学運動についてはなにごとも語ったことにならぬだろう。井上良雄は無名の一文芸評論家として終始したことによって、なまじ文壇的風潮などにわずらわされることもなく、「下から」のインテリゲンツィアの立場にたって、純粋にそういう時代の文学的雰囲気を代表したのである。(『さまざまな青春』)

 

 もし、プロレタリア文学が、「自然生長的」=プロレタリア「による」文学に終始していたら、日本の革命運動に、プティ・ブルジョア・インテリゲンツィアが吸引されることはついになかった。したがって、それは、階級意識に目覚めることのないアナキストの運動で終わったであろう。プロレタリア文学が、「自然生長的」なプロレタリア「による」文学から、「目的意識的」なプロレタリア「のための」文学へと進んでいったからこそ、たとえフィクショナルだったとしても、インテリゲンツィアにもプロレタリアートへと階級移行できるのだという可能性が開けたのである。だが、この目的意識性が、一方で、先の「浪漫的情熱」に満ちた「浪漫的極左主義」(猪俣津南夫)の温床になってもいくわけだ。これは確かに誤謬だったが、不可避的かつ不可欠な誤謬だったろう。平野は、「橋川文三保田与重郎とめぐりあったように、私は井上良雄とめぐりあった」と言った。その自らの自由浮動性に苦しむインテリゲンツィアが、それを共有している先行者に、どこか救いのようなもの(もちろん誤謬だ)を見出さずにいられなかった例として適当なたとえだろう。

 

 井上良雄や小林秀雄は、志賀を、近代人のように思考(思想)と行動(実生活)が一体となり、両者が乖離していない「古典的」な「自然人」と見なした。それによって、むしろ文学的インテリゲンツィアこそがプロレタリアートと「結合」し得る、それどころか、先行的、先鋭的に階級移行し得ると主張したのである。

 

 平野謙による井上良雄「芥川龍之介志賀直哉」の要約を見よう。

 

志賀直哉にあっては行動は思索の唯一の形式であり、思索はそのまま行動の内容であって、両者のあいだにはどんな分裂もないのである。「自然」であることが志賀直哉の唯一不動のノルムなのだ。〔…〕われわれの周囲にあるものがもはや自殺、宗教、狂気以外のなにものでもないとすれば、そのような近代を実践的に否定し得る人間のみが、今日の最期的な文化の危機を救い得るだろう。その人間だけがみずからを志賀直哉の芸術の正統な後継者と名のることができる。「スピノザの真の相続人は近代プロレタリアートである」とデボーリンはいったが、この「神即自然」の哲学者とプロレタリアートの結びつきが唐突でないとすれば、また志賀直哉と近代プロレタリアートとの結びつきも決して唐突でないはずだ。志賀直哉の芸術は小林秀雄のいわゆるユルトラ・エゴイズムの典型だが、最高度の個人主義社会主義とどのような抵触も示さない。社会主義のなかで個人は廃棄されるのではない。まさにアウフヘーベンされるのだ。社会主義のなかでのみ個人はどのような「人間的自己疎外」も知らぬ最高の個人として生きられるのである。(『さまざまな青春』)

 

 平野は、一九三二年当時、井上良雄のこの論を読むまで、「自己疎外」という言葉を知らなかったという。だから「本多秋五にたずねたが、本多もよく知らず、本多が松村一人かだれか「プロ科」の哲学者にきいてくれて、それがヘーゲルに発するゼルブストエントオイセルンクあるいはゼルブストエントフレムドゥンクの訳語だということをはじめて知った。そのゼルブストエントオイセルンクならぬ「社会化された私」と「真の個人主義文学」とを私は勝手に結びつけて、ひそかに『私小説論』に感銘していたのだが、実は私が当時の小林秀雄からまなんだ最大のものは、芸術あるいは思想と実生活とは連続していない、ということだった。〔…〕思想と実生活との非連続ということが、そういう言葉をつかえば、私の微弱な「転向」の核心をなしたのである」。

 

 平野が、小林「私小説論」の「社会化された私」に人民戦線の可能性を読んだことは、あまりに有名である。その誤読?が、志賀直哉プロレタリアートを結びつけた井上良雄を媒介にしなければあり得ないものだったことは、見てきたとおりだ。そのとき、「真の個人主義文学」志賀直哉と、「社会化された私=プロレタリアート」とが結びついたのである。いや、批評的に「結びつけた」のだ。その「結びつけ」ようとする動機は、引用にあるように、小林が論争の中で主張した「思想」と「実生活」との「非連続」からきていた。

 

 「思想」が自然生長的に「実生活」に結びつくことなどない。それは、目的意識的に外部注入されることによって、はじめて「結びつく」。平野の人民戦線論が、自己疎外を知らぬ「真の個人主義」たる志賀直哉を媒介しなければあり得なかったことがよくわかるだろう。繰り返せば、これは誤謬だったが、この志賀に対する誤謬、幻想がなければ、そもそもプロレタリア文学など存在せず、人民戦線論もあり得なかった。もちろん、同時にこの誤謬こそが、「私の微弱な「転向」の核心をなした」こともまた、平野にはよくわかっていたのだ。

 

 こうしてみてくれば、『暗夜行路』の謙作が、「今、お前のいったように、寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とがピッタリ一つになってくれさえすれば、何も彼も問題はないんだ」と言い、最後に大山で両者を「ピッタリ一つに」「結びつけた」ことは、分裂と悲連続を余儀なくされている「思想」(思考)と「実生活」とを、作品の力で「結びつけた」ということになるだろう。そのような例として、後進に輝かしく映ったことも想像に難くない。「結びつける」ことによって、蓮實重彦の『暗夜行路』論の言葉でいえば、謙作が幽閉されている、「俺の考」と「俺の感情」という両者の類似と選択の「偶数的世界」は「崩壊」し、「廃棄」されたのである。

 

だから、「総ては純粋に俺一人の問題」なのだと妻に語るとき、そこで謙作が口にしているのは、「類似」と「比較」へと向い「選択」へと進む主題体系を支えている偶数原理そのものの崩壊の必然性なのだということになる。(「廃棄される偶数」、『「私小説」を読む』)

 

 最後に小津に戻ろう。

 小津が、従軍中に初めて読んだ『暗夜行路』後篇に「感動」し、その影響を戦後において、作品の上でも、人間関係の上でも、政治的実践の上でも発揮してきたということを見てきた。

 

 『風の中の牝鶏』で、夫が妻を列車のデッキならぬ「二階」から突き落として以来、後期の小津(的作品)の「二階」と「一階」とが、両者を結びつける「階段」が消去されることで「非連続」に乖離し、できればそのまま「偶数性」を「廃棄」してしまいたいという欲動ともいえる作品原理に貫かれてきたことについても述べてきたつもりだ。

 

女たちの聖域として説話論的機能をはたしている二階の部屋は、最終的にはその特権的な住人を排除して空虚な場たるべく後期の小津的「作品」の中に位置づけられているのだ。そして一階の住人たちは、それが善意からであれいささかの悪意をこめたものであれ、二階が洞ろな空間となる瞬間の到来を夢想しつつ暮す存在だといえる。〔…〕後期の小津的「作品」とは、宙に浮んだ空間を空っぽにすべく消費される身振りと思考の総和にほかならない。(蓮實重彦『監督 小津安二郎』)

 

 「その1」で見たように、蓮實の意図に反して、その小津論と『暗夜行路』論とはまぎれもなく響き合っている。両者は重ねて読まれるべきなのだ。すると、蛮勇な志賀のようには、「二階」と「一階」を「総ては俺一人の問題」だとして「結びつける」ことのできなかった小津は、かわりに何度も何度も「二階」を宙に浮かせては、最後に「空虚」な「空間」にしてきたことが見えてくる。結合できないならば、どちらか一方を「空っぽにすべく消費」する形で、両者の乖離を「廃棄」してしまうこと。もし小津の人民戦線論というものがあったとすれば、そのような論理に基づくものであったはずだ。だが、「消費」といい、「廃棄」といい、これらは「結合」の不可能性にほかならない。だからこそ、小津の「二階」の宙づりは、その不可能性を前に、何度も何度も反復されるほかなかったのである。

 

中島一夫