柄谷行人の「中野重治と転向」について その2

 例えば、中野が『むらぎも』の有名な場面――芥川に、「才能として認められるのは」堀辰雄と君だけだから、文学をやめないで続けてほしいと言われ、「あ、あ、あ」この人は「学問・道徳的にまちがっている」と考える場面――についても、柄谷は、「文学をやめて政治をやるとか、政治をやめて文学をやるとかいった考えそのものがまちがってい」て、その種の二元論を拒否することが、中野の「道徳」だったと述べる。だが、それは極めて「わかりにくい」もので、いわば「それは「あ、あ、あ」という「感じ」のなかにしかない」のだ、と。

 だが、当時の状況をふまえれば、これについても平野の見方に分があるように思われる。平野は、当時中野は、林房雄亀井勝一郎らとともに東大新人会の社会文藝研究会のメンバーで、彼ら「鋭敏な青年インテリゲンツィアの多くは」、「山川イズムにかわる指導理論となった福本イズムの信奉者たちであった」と。亀井の回想記によれば、そこではゲーテプロレタリア文学者より偉いか偉くないかと議論になったようなとき、中野はきっぱり「ゲーテだって偉くないさ!」と断言したという。

 芥川が、あえて中野を呼んで「文学を続けてほしい」と語ったのも、そうした文脈――中野がラディカルな福本イズムに吸引されていった――の中にあった。それに対して中野は、その後自殺した芥川に対して「かわいそうに思った」と、一見傲慢にも聞こえる言い方(あるいは、シェストフ的不安を、「よだれを流した芥川ほどにも不安がっていない」と言った、あの嫌らしい言い方)をしたのである。この「かわいそうに思った」と、『むらぎも』の「あ、あ、あ・・・この人はまちがっている」は、つながっているのだ、と。平野は言う。

これは中野の若さの特権でもあったろうが、痛恨にみちた芥川龍之介の不安感を乗りこえ得る立場に、すでに立っていると確信していたからでもあろう。その立場とは、いうまでもなくマルクス主義のさし示す方向だった。(『昭和文学史』)

 すなわち、先の中野の「言い方」は、宮本顕治にならって、芥川を「敗北の文学」と見なしていたことに基づいているのだ、と。芥川の死後、中野は蔵原惟人と芸術大衆化論争を繰り広げる。これも、日本プロレタリア芸術連盟が、蔵原、青野季吉らの「労藝」側と、中野や谷一らの「プロ藝」側に分裂したのを受けたもので、あくまでマルクス主義文学運動の内部におけるヘゲモニー争いだった。

 だから中野は、のちにこの論争を回顧して、「自分でも力を入れ、蔵原に何度も叩きかえされ、非常にためになった」と頭を垂れることになる(その実蔵原は、二度しか書いていないし、しかも一度目は中野個人に向けられたものですらない)。芥川に対する態度とは、えらい違いだ。

 一方、終始人民戦線を模索していた平野は、ほかならぬその、蔵原=政治に対抗しようとした中野の方にこそ、「急進的な文学インテリゲンツィアによるマルクス主義文学」の「象徴」を見出した。戦後、皮肉にもその中野と平野の間で「政治と文学」論争が戦われなければならなかったのは、すでに「政治=マルクス主義の優位性」が徐々に失効し、その水位が下がっていたからにほかならない。

 本当は、「政治と文学」論争が、すでに「「政治と文学」理論の破産」(奥野健男)を示していたのだ(だから、「政治と文学」ではなく、「人間性」が論争のテーマになった)。むしろ、「政治と文学」という二元論が機能していたら同じ陣営にいた(かもしれない)中野と平野が、陣営を分かたねばならなかったところに、この論争の歴史性を見るべきなのだ。平野が、中野の反発を招いたことに驚いたのは、中野をリスペクトしていたからばかりではない。

(続く)