海にかかる霧(シム・ソンボ) その1

 あの『殺人の追憶』の脚本、シム・ソンボが初監督、ポン・ジュノが共同脚本と製作に回っている。ポン・ジュノ組らしく、韓国社会の暗部をえぐり取るような作品だ。そうした視点抜きに見るならば、本作はハリウッドまがいのパニック映画にしか見えないだろう。

 中国からの密航者を乗せた船中で25人が死亡した「テチャン号事件」(2001年)を下敷きにしているようだが、この漁船に起きた事件全体が、韓国の置かれた状況に重ねられている。いわゆる、船=国(運命共同体)という古典的な比喩装置である。

 どうしても昨年のセウォル号事件が、(特に韓国の)観客の頭をよぎるだろう。だが、映画はむしろ、セウォル号事件は、この作品に描かれた韓国の帰結にすぎない、と言っているかのようだ。「カン・チョルジュ船長」(キム・ヨンスク)は、セウォル号の船長と違って、最後まで船を見捨てないのだが。

 1998年の麗水(ヨス)に始まる。前年のアジア通貨危機でウォンが暴落、IMFが強制介入してきた時代。燃料代もままならないカン船長のオンボロ漁船は、今廃船にすれば政府の補助金が出るといわれる。韓国政府はIMFの、漁船は政府の管理下に置かれ、すでにそれぞれの父権を喪失しているのだ。

 そうした事態をなぞるように、カン船長はひとたび船を下りれば、家では妻を寝とられる体たらく、父権どころではない。また「だからこそ」、その反動で唯一父権を発揮できるこの小さな漁船に、ことのほか執着することにもなる。「この船では俺が父で大統領だ!」彼は、単に狂人なのではない。

 船長は、船=家を守るために、中国の朝鮮族密航者を魚槽に隠して密入国させる、闇ビジネスに手を出す。だが、老朽化した船はガス漏れを起こし、魚槽は一転、密航者30人を皆殺しにする「ガス室」へと変貌する。自国民だけではやっていけなくなった国家が移民を引き受けるも、内に抱え込む体力のなさを露呈させていくという悪循環。

 その中で、密航者の若い女性をめぐって争いが起こるが、一人生き残ることになるこの女性「ホンメ」(ハン・イェリ)は、最年少の船員「ドンシク」(パク・ユチョン)のファムファタルである。彼はホンメを「死んでも守る」ことを通して、船長=父と対決し、家長=父になっていく成長過程にある人物だ。

 一方、ホンメは、船長にとっては、そのまま生かしておけば「ガス室」の証拠となってしまう人物、またドンシクよりやや年長の船員にとっては、自分もその「分け前」にあずかりたい性のはけ口だ。彼女は、それぞれの船員にとって、それぞれ違う「モノ」として映っている欲望の対象なのだ。

 ドンシクとホンメの二人が恋に落ちたかどうかも、実は定かではない。ドンシクにとっては「運命的な恋人」に見えたホンメが、しかし彼女はそのように見ていなかったのではないかというのが、この作品の肝なのだ。

 二人で船から脱出し、岸に流れ着いた後の展開から、それは明らかだろう。ホンメにとってドンシクは、生き延びて船から脱出するためには、すがるほかない人物だったのである。そもそも、ナチスの矮小化された反復ともとれるあの「ガス室」を、加害者と被害者として通過してしまったこの二人が結びつくことなど、到底不可能だっただろう。

(続く)