海にかかる霧(シム・ソンボ) その2

 すると、ラストシーンも意味深長になる。6年後、ドンシクは、ホンメとの約束の地九老にやってきていた。そして、子供にラーメンを食べさせる女性に目を奪われる。

 後ろ姿の女性は「ホンメ」で、ドンシクと目が合う子供は、あのとき不安と恐怖にかられて、互いにしがみつくように肌を合わせた二人の子供ではないか、と誰もが思うシーンだろう。だが、九老に兄がいると言っていたホンメの言葉が、自分の身を守り、かつ同情を引こうとした嘘で、実は韓国にいたのが彼女の「男」だったとしたらどうか。

 一転ドンシクは、ホンメが男の元に行く手助けを命がけで行ったことになり、彼女は文字通りファムファタルとなろう。むろん、ラストでドンシクが見るホンメは、あくまで後ろ姿であり、そもそもホンメ自身かどうかすらわからない。彼が追ってきた「幻影」かもしれないのだ。

 ひょっとするとその幻影は、あの海霧の中に船が閉じ込められたときから始まっていたのかもしれない。まさにあのときから、韓国という国家は、どちらに向かって進んでいいかわからない、行き先を見失った船だったのであるまいか。

 最後に、ポン・ジュノ作品に一貫する「穴」について触れておこう。

 ポン・ジュノは、軍事政権から民主化されていく韓国の市民社会に、ずっと穴を見てきた作家だ。徐々にフラットに均されていく社会においては、もはや犯罪が解決せず(『殺人の追憶』の用水路)、探偵=犯人のもとで犯罪の記憶=歴史は改ざんされ(『母なる証明』の鍼のツボ)、したがって社会に穿たれた穴は、いつしか人々の肥大化した不安=怪物の住処として感じられるまでになろう(『グエムル』の下水道)。

 そして、ポン・ジュノ組のシム・ソンボによる今作も、その穴を継承しているように思われる。ほかならぬホンメが、船にぶち開けた穴がそれである。船はそこから水漏れを起こし、やがて船を沈めるに至るだろう。まさに、中国の朝鮮族という移民=他者(の幻影)によって、乗組員たち=市民社会の絆はすでにズタズタに切り裂かれ、船=国の至るところで水漏れを起こしているのだ。

 「俺だけまだヤッてないんだ!」。分け前にあずかれなかった若い船員によって連呼される、あの赤裸々なまでに破廉恥な叫びは、確かに彼が長旅の禁欲生活の果てに性に餓えきっていたことを示しているだろう。だがそれ以上に、自分ら若い世代がいかに割を食ってきたかを訴える声として響く。少なくとも彼らは主観的には、船=国家による再配分に対して世代間格差を痛切なまでに感じているのだろう。

 だが一方で、『スノーピアサー』の穴が、列車=資本主義から脱出する革命の突破口だったように、今作の穴も、結果的にドンシクとホンメを難破船から脱出させる糸口となったのではなかったか。

 ポン・ジュノ組は、この市民社会の絆がズタズタに切断された穴の先に、霧の中の閉塞状況からの脱出口を探しているように思える。次回作では、その穴から何を見せてくれるのだろうか。

中島一夫