福田恆存の「政治と文学」その3

 福田の「政治=九十九匹」は、従来の「政治と文学」における「政治=マルクス主義」からすでに転換している。「ぼくがこの数年間たえず感じてきた脅威は、ミリタリズムそのものでもなければナショナリズムそのものでもなかった――それはそれらの背後にひそむ個人抹殺の暴力であり、その意味においてボルシェヴィズムにも通ずるものであった。〔・・・〕ぼくのわずかになしえたことといえば、ロレンスの『黙示録論』を訳すことにすぎなかった」。

 

 それは左右を問わない「政治」的集団や組織を指していた。六年後(一九五三年)のスターリン死去の年、伊藤整によって「組織と人間」として定式化される問題である。コミュニズムの社会であろうと資本主義の社会であろうと、「九十九匹=組織」の中にいるかぎり、「一匹」の自由や人格、すなわち一人の「人間」の「真実」(伊藤)は存在しない――。

 

 以降、「文学」は根本的に「九十九匹」の中に居場所をもたない「一匹」の実存をあらしめる「表現」となった。福田はそのことを、マルクスをふまえて「文学は阿片である――この二十世紀において、それは宗教以上に阿片である」と言った。福田以降の「文学=一匹」は、だから通俗化したマルクスなのである。一見無縁に見えようとも、述べてきたように、それもまた「政治と文学」の文脈にある。

 

 この福田―伊藤の問題の端緒は、平野謙の「ひとつの反措定」や「政治と文学」(ともに一九四六年)によってすでに開かれていたといえる。平野は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンのアリョーシャへの高名な問いかけ――「お前が最終的に人々に平和と平安を与える人類の運命という建物を建てるとする。ところがそのために、ほんのちっぽけな子を苦しめなくてはならないとしたら、これに同意するか?」――をふまえて言う。

 

このイワンの設問とそれに対する二様の答え、そこにレーニンドストエフスキーという二人の天才の岐れ路がある。単に天才だけではない。なべてここを分水嶺に、政治家と芸術家、実践人と観念人、リアリストとロマンティケルとがそれぞれの星まわりと気質とを抱いて、各自の宿命をたどってゆく。イワンの問いはいわば人類永遠の問題である。ファシズムの時代でもデモクラシイの時代でも、よしコムミュニズムの時代になろうと、この設問の孕むプロブレマティックはその光を失うものではない。(「政治と文学(二)」)

 

 レーニン(政治)とドストエフスキー(文学)の「分水嶺」――。

 そもそも、ロレンスが『黙示録論』を書いたのも、このイワンとアリョーシャの対話の影響だった。個人的自我(ちっぽけな子)と集団的自我(人類の運命)の二律背反の問題である。この二律背反は、福田恆存の「一匹」と「九十九匹」、柄谷行人の「単独性」と「一般性」、さらにいえば、以前も書いたように、東浩紀の「具体性=根源的」と「確率的=非根源的(「ソルジェニーツィン試論」一九九三年。この東のデビュー論文のベースにあるのも、カラマーゾフの一節だ)へと変奏されていくことになる。

 

 重要なのは、彼らが「一匹=文学」と「九十九匹=政治」の二律背反を考えなければならなかったのは、「政治」(大衆)と「文学」(知識人)の間に分割線が引けなくなったからだということである。それが「知識人―大衆」という図式の崩壊した「アポカリプス=終末」という事態であった。平野謙が、絶対に論争したくなかったとこぼした中野重治を相手に戦後「政治と文学」論争に踏み出せねばならなかったのも、レーニンドストエフスキーとを分けた「政治」と「文学」との分割線が、すでに引けなくなりつつあったからにほかならない。だからこそ、「政治=組織」の犠牲者として「文学」者の小林多喜二火野葦平とを表裏一体にながめるという、いわば「炎上」覚悟の「ひとつの反措定」をあえて提起せねばならなかったのだ。述べてきたように、この「反措定」やそれによる論争がなければ、この文脈の中に表れた福田の「一匹と九十九匹と」や『黙示録論』翻訳が、西部邁柄谷行人といったブントをはじめ、吉本隆明東浩紀に至るまで、あれほどまでのインフルエンサーになることはなかった。

 

 知られるように、平野の文学史観では、「政治と文学」を回転軸として、「昭和」文学は「昭和」十一年ごろを境にして前期と後期にはっきり区分される。前期は「労働者運動の一翼たるマルクス主義文学側の「政治と文学」の問題提起」、後期はマルクス主義の退潮とともに「軍閥、官僚、それをとりまく「革新的」文学側からの「政治と文学」―文芸統制」が、それぞれ重心をなす。

 

 平野が言うように、「前期における「政治」概念と後期における「政治」概念とはまるで正反対である」。だが、「政治と文学」の問題を真に考えるなら、いくら都合が悪かろうと、後期の「政治」を前期の「政治」とは別物だからといってオミットすることはできない。しかも、後期の「政治」概念もまたマルクス主義であったことは、今日明らかなのだ。後期の「革新的」文学のベースにあったのは、講座派から出てきたいわゆる生産力理論、すなわちソ連五か年計画をモデルとする総力戦体制=統制経済にほかならなかった。それが「民主主義(革命)文学」と呼ばれたのである。この講座派イデオロギーによる「民主化」は、戦後GHQの占領政策にも引き継がれ、それがいわゆる「戦後民主主義」を規定していくことになる。占領軍を解放軍とみなす「誤認」もここから出てきた。

 

 戦後「政治と文学」論争においては、少なくとも平野の側からみれば、中野がこの後期の「政治」を歪曲しようとしているように見えた。中野が、講座派的な二段階革命論に則り、「プロレタリア文学の当面する主要課題を「ブルジョア民主主義革命」の遂行と規定」し、「プロレタリア文学をその活字面の上でいかにして今日の民主主義文学にまでつなぎあわせ、それを「運動の正規の成功、発展」として押しだすかに、中野重治の現実の関心はかかっていた」ようにみえたのである(「「政治の優位性」とはなにか」一九四六年)。だが、真に「政治の優位性」というのなら、その誤謬や退潮を見ないようにして「「運動の正規の成功、発展」として押しだす」のではなく、それらもふまえたうえで発展させていくべきではないのか――。

 

 このように捉えてみることで、平野が中野との論争において、何を問おうとしたのかが見えてくる。平野は、後にフルシチョフによる、いわゆる「スターリン批判」を批判した(「粛清とはなにか」一九五七年)。フルシチョフは、専らスターリンの個人悪から粛清を説明しているが、平野は、粛清工作をスターリン個人の残忍な権勢欲から説明しきれるものではないという。

 

あえていえば、私は粛清工作と第一次五カ年計画とをなるべくくっつけて、そこに一種の因果関係をたどりたいのである。くりかえせば、私は中世の魔女狩りにも匹敵する粛清を、スターリン個人の恣意に限定したくない。いかにもスターリン個人は重大な因子にちがいないが、そのスターリンをもまきこんだまがまがしいメカニズムの自転運動みたいなものが作用し、その自転作用はもはやスターリン自身といえども抑制することができなくなった、とみたいのである。そして、そのような運動の起点を私は第一次五カ年計画の苛酷な遂行にさだめたいのである。(「粛清とはなにか」)

 

 もちろん、ほぼトリアッティそのままである。「帝国主義諸国の重囲のうちに、一国社会主義を建設してゆかねばならなかったところに、いわゆる一枚岩的なスターリン主義の本質があった〔…〕それは西欧流の個人主義的論理ではどうしても割りきりにくいものだった」と。平野の「組織と個人」論が、左も右も同一視した福田恆存伊藤整の議論と決定的に異なるのは、このようにスターリン主義の粛清が、スターリン「個人」の問題ではなく、「スターリン主義がアジア的な後進性にふかく依存し」た「組織」であったことをふまえているということだ。

 

 おそらく平野が、粛清と五カ年計画を「個人」ではなく「組織」の問題として捉えようとしたのは、先に触れたように、マルクス主義講座派が、その五カ年計画を参考に戦時中の生産力理論=総動員体制へと乗り出していった「政治」を、それらとパラレルに捉えようとしたからだろう。すなわち、スターリン主義の「組織」に西洋的な個人主義では割り切れないアジア的後進性を見る視点は、翻って日本の「半封建的」な後進性から醸成される「政治」をも捉えようとするものでもあったのである。一貫して知識人(プチブルインテリゲンチャ)論を保持し、したがって福田や伊藤のように「大衆」の位相を捉え損なった平野は、そのかわり「半封建的」な後進性が、「迷える」ことをも許さない、「一匹」を抹殺する「政治」を生み出す「組織」(「スターリンをもまきこんだまがまがしいメカニズムの自転運動みたいなもの」)として作用することを見出したのである。

 

 平野は、このアジア的後進性における「マルクス主義=政治」の問題をトータルに捉えようとした。だからこそ、一見正反対に見える「昭和」十一年を境に前後半で転換した政治を、あえてひと続きの「政治」とみなし、小林多喜二火野葦平を表裏一体に見るという「暴挙」に出たのである。だがこうしてみてくれば、それは、「極東の「半封建的」な島国の住人たる私たち」の「資本論に反する革命」(グラムシ)を捉えようとした、平野なりの「革命運動の伝統の革命的批判」(中野)ではなかったか。

 

 少なくとも、ここには、「半封建的」な後進性が、すんなり「民主主義(革命)」には接続し得ない「何か」への視点があった。それは、論争相手の中野からも、同じ陣営にいた福田や伊藤からも、消え去ってしまった「もの」である。おそらく、平野は、これに対する「反措定」の契機を、すでに一九三四年の「リンチ共産党事件」の際に見出していた。平野は、半封建的な後進性を、粛清やリンチといった「暴力」の問題として感受していたのである。

 

中島一夫