ローサは密告された(ブリランテ・メンドーサ)

 主演女優のジャクリン・ホセが、東南アジアの女優では初めてカンヌ国際映画祭主演女優賞(2016年)を受賞したことでも話題となった作品だ。

 フィリピン、マニラのスラム街。その片隅でサリサリストア(雑貨屋)を営む夫婦には四人の子供がおり、生活は貧しい。現在のフィリピンは、80%が貧困家庭だという(この監督は、彼らこそフィリピンを「代表」しているとカメラを向け続けている)。彼らは、子供たちには教育を受けさせ、何とか階級離脱をはかろうとしている。それゆえであろうか、家計の足しにと麻薬の売買に手を染めている。貧困と麻薬が分かちがたく結びついているのだ(だからこそ、この後麻薬撲滅を選挙公約にドゥテルテ政権を誕生させた)。

 冒頭で、一家の母ローサと次男を乗せたタクシーは、彼らの住むスラム街の奥にまで入っていくことを拒む。二人は土砂降りの中、大荷物とともに降ろされてしまう。マニラ中心部に隣接した一角に位置していながら、この「路地」は露骨に色分けされた地域なのだ。

 時に互いに軽くぶつかりながら、所狭しと路地を行きかうのは、スラムに住む人々が日々の営みのために引いて歩くリヤカーであり自転車である。だが、ある週末の夜、この路地に猛スピードで二台の警察車両が侵入してくる。一気にあたりが不穏な空気に包まれる。ローサが「密告された」のだ。後に明らかになるが、密告者は、よく顔を見知っていた同じスラムの住人だった。

 全編手持ちカメラで、固定カメラの静的なショットは一切ない。ここでは、動的なカメラだけが、人々の生きる姿を活写できる。だから、本作が見つめようとするのは、貧困と麻薬が結びつくありきたりな状況ではない。密告した者やされた者ばかりではなく、警官たちもその中で生きざるを得ないフィリピン社会の動的な構造そのものである。

 ローサが連行された警察署の実態は驚くべきものだ(本作は、ほぼ聞き取りによる実話のようだ)。ローサと夫のネストールは、手錠をかけられたまま車で署に運ばれるが、彼らはなぜか正面玄関には入らない。その脇を通り過ぎ署の裏手の小部屋へと連れられていくのだ。「なぜこっちに」とローサはいぶかしがるが、警官らは耳を貸さない。部屋の中には「おネエ」と呼ばれる少年が一人、留守番をしていた。マニラ警察署には、ちょっとした盗みで捕まり、だが住所不定で家族もいないので、そのまま署内に留まって小間使いをしている子供が大勢いるのだ。

 いったい、この部屋は何なのか。最後まで明確にはならないが、どうも警官たちがチームを組み、普段は使われていない部屋を、勝手に自分たちだけの「分署」に仕立て上げているようなのだ。机やイスはもちろん、テレビやパソコン、尋問のための奥の部屋まである。見ようによっては、まるで映画のセットのようだ。本作の撮影には、本物の警察署が使われ、実はそこにいた警官たちは、撮られようとしている映画の内容までよく知っていたという。にもかかわらず、自分たちの「腐敗」のことだとは全く感じていなかったようなのだ。自分たちが腐敗しているとすら思っていないほど麻痺しているということか。

 ローサと夫は、売人の情報か金と交換に釈放をもちかけられる。金のない彼らに選択肢はない。やがて、彼らのタレコミでつかまった売人が「分署」へと連れてこられ、従わなかったために暴力をふるわれる。

 その一部始終を見させられた夫婦は、結局その後金まで請求され、子供たちは親族に無心して回り、家のテレビを売り、体まで売るはめになる。老婆が路地に捨てた洗濯の水で、娘が滑って転ぶシーンが印象的だ。この路地では、お互いがお互いを転ばせあっている。だが、娘は文句ひとつ言わずに歩き去るだろう。互いにそれが生活なのだ。

 最終的にテレビを買ったのは、何と警察署の正面窓口にいる警官だった。そのテレビは裏手の「分署」に新たに設置されるのだろうか、はたまた正面の署内か。また、事態を腐敗とみるべきか、スラムの住人も警官も生活基盤を共有していると捉えるべきか。いずれにしても、その売り上げは「分署」にわたるのだから、金も物も警察に納まったことになる。

 ローサ夫婦がそうであったように、ガサ入れは週末に行われる。なぜなら裁判所は週末閉まっており、「交渉」のために48時間の猶予が出来るからだ。警官らはウィークデイには制服で正面玄関から入り、週末にはそれを脱ぎ捨て、「分署」で貧困層から麻薬の売り上げを吸い上げる。

 制服姿の警官、私服の警官、小間使いの少年、売人、その家族、……。手持ちカメラは、この正面玄関と「分署」の間の廊下を何度となく往復し、行きかう人々を映しだす。この細く薄暗い道こそが、フィリピン社会全体の出口のない腐敗を、構造的に表しているのだ。

 こうしたなか、ローサの顔に激しい感情が表れないのが印象的だ。汗や雨に塗れたその顔は、生きるのにせいいっぱいで感情を表している余裕などないと語っているかのようだ。、良いも悪いも後悔も諦めも言っている暇はない。そう主張するように、ローサはひたすら街を歩いていく。

 だがラスト、屋台のリヤカーを引く、同じスラムの住人であろう家族の姿を見たとき、ローサは初めて感情を露わにするように涙ぐむ。いったいそれは、どんな涙だったのか。

 協力しあって屋台をしまう家族の姿は、ローサが戻りたくないより大きな貧困か、あるいは「手を染めてしまった」彼女には、もはや手の届かない「平穏」か。貧しくても幸せそうな家族を目にしながら、彼女の耳には「ローサ、アイスある?」という、スラムの仲間たちが隠語で麻薬を求めてくる声が聞こえてくる。ローサの目と耳は引き裂かれていて、それらが幸福な一致をみることは、もう二度とないのだ。

中島一夫