江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学(小谷野敦) その2

 繰り返せば、その時「政治と文学」の二項を媒介したのが、「人民戦線=青春」だった。ここにおいては、中野重治が転向して私小説を書くことも、小林秀雄が「私小説論」において、私小説マルクス主義のタームで捉えることも、すべて「同心円」の中で矛盾なく捉えられることになるだろう。この時、私小説は、「純粋性のシンボル」として、マルクス主義=政治からの「転向」としてではなく、それと等号で結ばれるもの(「代補」と言うべきか)となったのである。

「いまでも私には小林多喜二の『党生活者』と嘉村磯多の『途上』とは、ほぼ同質のものとして残像している。というより、党に殉じた小林多喜二の生涯と純文学に礒じた嘉村磯多の生涯とほぼ等価で結びたい気持がつよいのである。」(「私小説共産党」)

 話を戻せば、書評に書いたように、本書から読まれる江藤の像は、『成熟と喪失』以降、私小説から遠く離れて(小谷野は、『成熟と喪失』を江藤の私小説と見なしている)、政治へと振れたために自滅したというものである。

 指摘しておきたいのは、江藤のそうした道行きが、まさに平野謙のパースペクティヴの内部にあるということだ。平野においては、私小説は、共産党およびプロレタリア文学とともに「純粋性のシンボル」なのだから、そこから遠く離れることは、世俗化、大衆化=サブカル化へと堕することを意味する。これは、江藤においては、例の村上龍田中康夫に対する評価軸を喪失したかのようなブレとして露骨に表れた。

 江藤を自滅へと追い込んだのは、自らの純粋性を崩壊させていく力であり、江藤は、その掘り崩されていく純粋性を埋め合わせようとするかのように、天皇にしがみついていったのではなかったか。小谷野が「わが眼を疑った」と言うように、あるとき江藤は、「天皇はどうでもいいと思っている日本人がいてもいいと思っている」かのような発言すら行っているが、江藤にとっては、本当は天皇も代替可能だったのかもしれない。

 一方、終始「私小説好き」だった平野は、その「私小説共産党=純粋性」の公式によって、自らの転向の合理化をはかった。そして、平野における「青春」とは、まさにその「純粋性」の追求にほかならなかった。述べてきたように、江藤は、これを批判して「成熟」と言ったが、平野の「青春」からして、このように融通無碍な概念だったのだ。

 平野の高名な言葉に、「小林多喜二火野葦平とを表裏一体と眺め得るような成熟した文学的肉眼こそ、混沌たる現在の文学界には必要なのだ」(「ひとつの反措定」)というのがあるが、ここで言われる「成熟」には、すでに自らの「青春=政治の優位性」に対する批判がこめられており、江藤が「成熟」と言って自らを批判してくるのを先取りしていたとすら言えよう。

 このような意味において、江藤の死は、平野謙に呪縛されている。他人事ではない。今や平野など存在しなかったように忘れ去られている。だがいちいち指摘しないが、見ようと思えば、いまだに平野のパースペクティヴ=人民戦線史観は、亡霊のように至るところで機能している。

 いまもなお、われわれには、平野批判が不断に必要である。そう考え、あわてて杉野要吉『ある批評家の肖像 平野謙の〈戦中・戦後〉』を読み返す。平野批判の文脈において、必ずといってよいほどその名が挙がるこの仕事の意味が分かるのに、二十年以上かかってしまった。いや、まだ本当には分かってはいないのかもしれない。

中島一夫