否定と肯定(ミック・ジャクソン)

 ホロコーストはあったか、なかったかをめぐる2000年の法廷闘争の映画化だ。

 ユダヤ人女性歴史学者と、「ホロコーストはなかった」と主張する否定論者であるイギリスの歴史作家が、イギリス王立裁判所で対決する。原題は「Denial」(否認)。この原題「否認」と邦題「否定と肯定」とが、それぞれ本作の核心を浮き彫りにしている。

 主人公のユダヤ歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)のスタンスは、裁判前からすでに明確である。『ホロコーストの真実――大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』(1993年)の出版講演で、聴衆の一人が彼女に質問する。「否定論者と討論しないのは民主主義の否定では? ずいぶんと臆病なのでは?」

 「臆病に見える?」と言いながらリップシュタットは応える。「討論に応じれば、ホロコーストの有無は論争になり得ないのに、あたかも二つの立場があるかのように思われてしまう。否定論者の立場を存在せしめしてしまう」と。すなわち、この歴史学者は、「否定と肯定」という、対立する立場が民主主義的に論争する「場」自体を否定しているのだ。これはこれで、歴史修正主義に対するあり得べき一つのスタンスではあろう。

 ネタバレになるが、その後リップシュタットは、否定論者デヴィッド・アーヴィングに裁判で勝利していく。だが、この作品が興味深いのは、むしろ彼女は「負けた」のではないかという視点を招き寄せてしまうことだ。結局彼女は、ずっと退け続けてきた「否定と肯定」が合い並び立つ「場」を成立させてしまったからである。

 ラスト、アーヴィングがTVのインタビュー番組で、裁判に負けてなお今後も否定論者をやめないと公言するシーンは、その負け犬の遠吠え的な厚顔無恥もさることながら、ついに「ホロコーストはなかった」という主張が、公然と法廷の場でなされる時代の幕開けを示していよう。判決が出た後、「今回は完敗だ」と握手を求めに歩み寄るアーヴィングの表情は、言葉とは裏腹に、これで「次回」もその「次回」もあり得ることになったという満足感すら漂っている。

 さらに原題の「否認」は、より深刻な問題をはらんでいよう。いよいよ裁判も大詰めに差し掛かってきたとき、裁判長はリップシュタットの弁護団に「素朴な疑問ですが」と次のような一言をもらす。

 「アーヴィング氏の主張が、嘘ではなく、反ユダヤ主義を「信じている」ところからなされているとしたら? 反ユダヤ主義的な主張を行う「表現の自由」があるのでは?」。もし、「ホロコーストはなかった」という言説が、意図的な歴史の修正や改ざんではなく、そのように信じ込む「否認」であったとしたら、それを拒絶することは可能かという問題である。

 おそらく原題の「否認」は、フロイトの「否認」を念頭に置いている。フロイトにおいて「否認」とは、母親に男根が不在であることの「否認」であり、去勢への抵抗であった。そして、去勢の脅しから守ってくれるものとしてフェティシズムがある、と。

 本人は絶対に認めないだろうが、「ホロコーストではなく、ヒトラーの専門家だ」というアーヴィングにとって、ホロコーストの「否認」とヒトラーに対する「フェティシズム」は不可分ではなかったか。

 裁判前にリップシュタットの講演に潜り込んでいたアーヴィングは、「ユダヤ人を虐殺しろというヒトラーの命令書があるなら持ってこい! 持ってきたら1000ドルくれてやる!」と札束を出して挑発する。この否定論者にとって、ヒトラーとは、「去勢の脅しに対する勝利のしるし」であり(フロイトフェティシズム」)、去勢されざるヒトラーの主体(父)としての命令こそが、ホロコーストの唯一の証しなのである。逆に言えば、そのようにホロコーストが「否認」され続けることによって、アーヴィングは、自らの去勢恐怖を、ヒトラーというフェティッシュで埋めておくことが出来るのだ。

 もしアーヴィングの言説が、このような「否認」であるとしたら、それを嘘や意図的な改ざんとして糾弾することは難しいだろう。「否認」は無意識だからだ。そして、嘘や改ざんでないとしたら、たとえそれが差別的な言辞であったとしても、「表現の自由」が認められてしまうのが民主主義のやっかいさというものだろう。

 リップシュタットが民主主義を回避していたのはそのためだろうし、裁判長がふと漏らした一言は無意識を裁けるかという難問を喚起させてしまった。この作品は、おそらく作り手の意図を超えて、歴史修正主義が新たなステージに突入してしまったことを示している。

中島一夫