武田泰淳の恥ずかしさ

 

 

 柄谷行人すが秀実が、一九八九年という冷戦終焉の年に、揃って武田泰淳について論じたことは記憶に強く残っている(柄谷行人「歴史と他者」(『終焉をめぐって』)、すが秀実「方法としてのフェティシズム」(『小説的強度』))。むろん、柄谷はそれ以前から何度も泰淳を論じてきたし、すが論はどちらかというと竹内好論というべきだろう。だが、私のような者は、鋭敏な二人がこのとき泰淳について書いたことによって、ようやく冷戦終焉をリアルに感じたのである。

 

武田はいう。《記録と言うとごく簡単に考える人があるが、私は、記録は実におそろしいと思う。記録が大がかりになれば世界の記録になるし、世界の記録をなすものは自然、世界を見なおし考えなおすことになるからである》。

むろん、この言葉は、「主題の積極性」を強調したマルクス主義の文学論に対して向けられている。そして、『司馬遷――史記の世界』も実はマルクス主義歴史認識に向けられていたのである。〔…〕

おそらくマルクス主義の運動のなかで、武田はそのような考えに対する異議を抱いていただろう。マルクス主義からの転向者は、先にもいったようにニヒリズムまたは宗教に向かうか、さもなければ次のような方向に進んだ。それは、ヘーゲルマルクス主義的発展論を変形し、そのようなアジアを解放することを「世界史的使命」として、日本の帝国主義を正当化することであった。これは元マルクス主義者だけが考えだしうる理屈である。武田は、これに異議を唱えるだけでなく、マルクス主義の根底に生き延びているヘーゲル主義を批判しようとしたのである。一言で言えば、彼は『史記』のなかに、ヘーゲル主義的な把握に対立し、且つそれを相対化する視点を読もうとした。それは歴史を空間的に把握することであり、「世界」史から意味・理念・目的を排除し、そこに「中心のない諸関係の体系」を見ることである。(柄谷行人「歴史と他者」)

  

 柄谷は、冷戦の終焉によるマルクス主義の失効を、あくまで「ヘーゲルマルクス主義的発展論」=史的唯物論の終焉とみなし、その後、そうではないマルクス―例えば「交通Verkehr」というマルクス――を見出していくことで、「無限」空間、世界宗教、交換=交通様式から構造的に見る「世界史」へと思索を展開していった。これら無限や世界宗教、交通から構造的に見る世界史などが、すべて武田泰淳と共有された問題意識であったことは言うまでもない。

 

 冷戦が終わって、未来という「時間」が決定的に喪失された世界や歴史は、以降「空間」的なものになっていかざるを得なくなった。グローバル資本主義とはそのひとつの「表現」である。日本のポストモダンは、一方でそれを追認するかのような国際主義と、その裏面の日本回帰として現れた。一方、泰淳は、資本主義世界の勝利どころではない、いわば(全的)「滅亡」を通して「無限」空間を見たのである(「滅亡について」一九四八年)。柄谷が、日本のポストモダニズムは、泰淳に代表される「戦後文学を完全に抹消してしまった」と書いたのもそのためだ。例えば、敗戦時、上海に居合わせ、泰淳と一人の女性を争った戦後文学者・堀田善衛(泰淳が『「愛」のかたち』を書けば、堀田が対抗して『祖国喪失』を書いたのもその争いによる)などの歴史観も極めて空間的である。堀田の『広場の孤独』(一九五一年)の「広場」は、泰淳の見た「無限」空間とパラレルだろう。

 

 泰淳は、主著のひとつ『司馬遷史記の世界』(一九四三年)を、「司馬遷は生き恥さらした男である」と書き始めた。柄谷やすがは、冷戦終焉とともに抹消された「戦後文学」の可能性を、いわば泰淳の「生き恥」に見出したといえる。言い換えれば、それは泰淳=戦後文学の「転向」の問題であった。

 

司馬遷は生き恥さらした男である。士人として普通なら生きながらえる筈のない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、情なや、進退谷まった、と知りながら、おめおめと生きていた。腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがらわしい、性格まで変えるとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを、噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く「史記」を書いていた。「史記」を書くのは恥ずかしさを消すためではあるが、書くにつれかえって恥ずかしさは増していたと思われる。(武田泰淳司馬遷』)

 

 泰淳が「司馬遷は生き恥さらした男である」と書いたとき、人はそこに、泰淳自身が左翼運動から脱落し、地主階級である寺院に寄生し、さらには愛する中国の侵略に兵士として加担せざるを得なかった自らの「生き恥」を重ね合わせているように読んだ。司馬遷が皇帝から処刑され、死刑か宮刑(去勢)かの選択を迫られて宮刑を選んだことは、まさに死の恐怖に屈して転向するという、典型的な左翼の転向と見なされたのである。

 

 だが、柄谷とすがが批判したのは、むしろ泰淳の「転向」をこのように捉えることだったといえる。

 

くりかえしていうが、武田のいう「恥」は心理的な問題ではない。司馬遷の「恥」について語るとき、彼は「書く」ことの根拠と無根拠を問うていたのである。〔…〕日本の多くの作家にとって、自らの恥を書くことが文学であったが、彼にとって、「恥」は「書く」こと自体にある。何のために書こうと、何を書こうと、「書く」ことは「生き恥をさらす」ことでしかない。いいかえれば、「書く」ことはいかなる意味でも正当化されないのであり、まさにそこにおいてのみ書くことがありうるのである。(「歴史と他者」)

 

 泰淳にとって「生き恥」とは、マルクス主義から仏教に転向したことではない。司馬遷が書くこと自体、生きること自体に恥を感じていたように、泰淳にとっては仏教自体が恥ずかしかった。

 

武士にも遊女にも、精神病患者にも殺人犯人にも「恥ずかしい」という気持は、かならずあるものである。まして僧侶には、人一倍にその気持が濃厚であるはずであるからには、まず「恥ずかしさ」こそ、新生の第一歩と申さねばなるまい。(「私は苦しかった」一九六五年)

 

当時の私は、なにしろ「働カザル者ハ食ウベカラズ」の説を熱愛していたから、労働者でも農民でも商人にでもない自分が、きき目があるのかないのか、死者を極楽・地獄のどちらへ送りとどけられるのか、いっさい不明のまま、白紙に包んだ金銭を受けとり、あまつさえ普通人と同じ色欲をも満喫して、一般家庭よりひろい、樹木も庭も池もある仏閣におさまっているのが、こそばゆかった。恥ずかしかったと言わないのは、平気な顔つきで、私がお寺の坊っちゃま、若先生でありつづけていたからだ。(「わが思索わが風土」一九七一年)

  

 「恥ずかしかったと言わないのは」と言う以上、むろん「恥ずかしかった」のである。だが「恥ずかしい」と言ってしまえば、たちまちそれは自意識的で自己完結的なナルシシズムに陥る。泰淳が司馬遷に見出した「生き恥」とは、歴史を縦に流れる時間的なものと捉えてしまうことで陥る一国(中心)主義的なナルシシズムではなかった。そうではなく、人間や国家が自分一人で生きているのでない以上、どうしようもなく、見回すように無数の他者があたりに充満しているという、空間的な歴史観からくる「恥ずかしさ」だったのだ。

 

 そんな「無限」の空間において、「自分」などと言ったり書いたりしても仕方ない。にもかかわらず、人はあたかもそうした自己完結が可能であるかのように、「自分」の言葉を書かずにいられない。だが、本当に自己完結が可能ならば、どうして他者に向けて書く必要があるのか。「書く」ことは、かくも不可能で不可避な矛盾でしかない。だから「恥ずかしい」のだ。

 

 歴史が時間的なものから空間的なものになれば、自ずと「すべては等価だ」という文化相対主義がはびこるだろう。そして、そのとき何よりも「生き恥」が忘れられよう。だが「生き恥」を忘れて「すべては相対的だ」「だからすべては平等だ」というのは、謙虚を通り越してもはや傲慢でしかない。このとき泰淳の、仏教の、平等主義や相対主義が「恥ずかしさ」とともに要請されるのである。しかし述べてきたように、冷戦後、「戦後文学」は抹消され、「生き恥」は忘れられ、世界は傲慢なまでに謙虚になった。泰淳が「恥ずかしかった」のはこのような事態ではなかったか。

 

 すがが、泰淳の恥ずかしさに見たフェティシズムとは、そのような文化相対主義の傲慢に対する抵抗だったはずである。

 

(続く)