アナキスト民俗学 尊王の官僚・柳田国男(すが秀実、木藤亮太)その2

 おそらく、本書において、最も疑問や批判を呼ぶのは、戦前から戦後の転換期に、フロイト「トーテムとタブー」のごとき「王殺し」を見ようとするくだり(第三章)だろう。もちろん、この「王殺し」は、天皇主権から国民主権への移行に「革命」を見るという、いわゆる「八・一五革命」説に、「もし整合性があるとしたら」、これがあったと見なすほかないという、あくまで思考実験であり作業仮説である。

 だが、それにもまして重要なのは、このように「八・一五」に「王殺し」を見ることで、かつてあった一度目の「王殺し」である「大逆」事件(1910年)を、必然的に視界へと浮上させてしまうことだ。

 おそらく、本書が「あえて」八・一五に「王殺し」を見ようとするねらいもここにある。本書を読んで思ったのは、戦後(憲法)の「象徴」化とは、一度目の「王殺し」によって露呈した共同体の、いや近代世界全体の「穴」を、大正期から戦前、戦後にかけて、共同体自らがふさぎ、隠蔽していく事業の総仕上げだったのではないかということだ。

 「大逆」事件の本質は、それが天皇制廃止を思想的背景にした出来事だったということだ。すなわち、王は神ではなく同じ人間であり、言いかえれば祖先(以前)は同じ猿だったと見なすこと。だが、「祖先(以前)」と言った瞬間、同時にそこには猿も含めた動植物が「象徴」化されるというトーテミズムの誘惑が忍び込む。

 同じ人間であることを証明するために、祖先(以前性)が呼び出されてしまうというこの近代の相関主義。したがって、(一度目の)王殺しは、必ずや(二度目の)象徴化を要請するのだ。「転向」が、特殊日本的な現象ではなく、近代世界に不可避的に生起してしまうゆえんである。

 本書の文脈でいえば、それは過激さと穏健さとを合わせもつクロポトキンの二面性であり、また例えば「暴力」と「神話」というソレルの二面性でもあろう。本書は第一章で、柳田が、「大逆」事件に連座した森近運平を追悼していたことを立証しつつ、同時に天皇制を擁護する思想を見出そうとしていたという柳田の二面性を浮き彫りにする。柳田自身が、「王殺し」を受容しつつ、かつ「否認」しようとしていたわけだ。

 だが、この(一度目の)「王殺し」の「時点での柳田には、それに対する思考は熟していない。「固有信仰」論として思考される柳田の「解答」は、戦中の『日本の祭』から、敗戦による天皇の「人間化」を前にして頂点を迎えるはずだ」(p159)と。それは柳田の問題である以上に、「象徴」化が、一度目の王殺しだけでは完成されないからではなかったか。

 本書は、続く二、三、四章で、その思考が「熟して」いく過程を丹念に追跡していく。述べてきたように、それは(二度目の)「象徴」化のプロセスそのものだった。そして、災厄のごとく訪れた敗戦とともに、まさに「災害ユートピア」(ソルニッツ)のようにそれは完成していったのである。その後の「災害(ユートピア)」のたびに「象徴」が呼び出されてきたのも、この時の「反復」であろう。その都度、国民も、「戦後」に戻らされる。

 ボルはついに、この「象徴」と相互補完的なアナを切断しきれずにきた。それは「戦後天皇制民主主義」として完成されたかに見える。すがが言うように、もはや(あるいは、ずっと)ほとんど一党独裁!と言ってよい。本書は、いかに柳田がその完成に加担してきたかを明らかにしている。

 江藤淳は、この戦後空間を、「ごっこ」と言い、「仮構」と言い、「虚構」と言った(例の「フォニィ」もこの認識からきていると思われる)。丸山真男なら「虚妄」と呼ぶだろう。丸山は、まだその「虚妄」に「賭け」ることができた。一方江藤は、何とかそこから出て、真に「行動する」ことを求め続けた。本当に「作家が行動する」ことを求めたのだ。

 むろん、江藤の言う「行動」とは、あくまで言葉であり文学である。江藤なら、この「一党独裁」の空間には、文学も言葉も民主主義も存在しないと言うだろう。言葉の正確な意味に意識的であろうとするのが文学者というものならば、文学者はまず、このリセットできない超越的な「象徴」を頂いているこの国の民主主義は、「本当に」民主主義なのかと問うことから始めてはどうだろうか。それをしないのは、この国の文学が、いまだ文学「ごっこ」でしかないことの「否認」である。

中島一夫