戦争をふせぐ歴史観――「党」のクビまで引っこ抜かないこと その2

 すがは、戦時下抵抗のルネッサンス論と見なされがちな『復興期の精神』(一九四六年)を、花田自身は「アンチ・ルネッサンス論」と主張していたことに注目する。そして、花田のいう「復興期=ルネッサンス」は、「文学史的には「昭和十年前後」(平野謙)とも呼ばれる「文芸復興期」を(も)指していると見なしうる」と述べるとき、それはすが自身の批評が「アンチ・ルネッサンス」であったことを想起させてやまない。例えば、次のような一節。

 

ヨーロッパ中世を「闇」とし、ルネッサンスを「光」と見なす歴史観や、日本の戦後を「第二の青春」と高唱する文学観は、今やあまり顧みられない。にもかかわらず、そうした観念は今日なお曖昧なまま生き延びている。それは、宮沢俊義丸山真男のいわゆる八月革命説が、その論理的・歴史的誤謬をさんざんに指摘されながらも、その前提なくしては戦後憲法や戦後史の正当性もほとんど語りえないのと似ている。

 

 この一節には、すがの批評が拠って立つ「六八年革命」が、まずもって「八月革命説」を背景とする戦後民主主義に対する批判だったことが含意されていると読める。言い換えれば、戦後の文学は、概ね八月革命説=戦後民主主義に担保された文芸復興期だったともいえよう。そこでは、文芸復興期を規定した横光利一のいう「純粋小説=純文学にして通俗小説」がずっと支配的だったのである。すがが、『探偵のクリティーク』(一九八八年)以降、たびたび横光「純粋小説論」を問題化してきたゆえんである。

 

 今回、すがが明らかにしているのは、そうした文芸復興=ルネッサンス論が、カントの「崇高」に基づく一種の転向であったということだ。その人間復興=人間性の回復は、非転向の絶対的な神のごとき人間離れした者を前にした「崇高」の感情に依っており、この非転向者の非人間性に対する畏怖からの「解放感」が、ルネッサンス=光として表現されたのだ、と。キリスト(非転向者)に対するユダ(転向者)の人間性=やましさこそが、キリストを崇高化する。崇高とは転向者の感情なのだ。花田が、例えば中野重治や中野を敬愛する平野謙らと決定的に異なるのは、「中野や平野に典型的な「転向」という問題系がない」ことである。花田のアンチ・ルネッサンス論は、現実の政治運動に関わったマルクス主義者には殊の外困難だったと思われるが、決して「党」を絶対化、崇高化しなかったということなのだ、と。

 

 注意すべきは、その「党」の崇高化=非人間化が、一方で小林多喜二のような「党」に対する「殉死」に基づいていることだ。人間イエスが代表として死ぬことで、その後復活して非人間=キリストと化したゆえに崇高化したように、「人間であるなら、小林多喜二のように死んでしまうが、党はそれを超えている」のだ。

 

 知られるように、カントの「崇高」は、「主観における人間性の理念に対する尊敬を客観に対する尊敬と取りちがえる」という「詐取」に基づくが、それは「死」を所有したかに見える「主」=非人間を前にした「奴隷」の死への恐怖を、フロイト的な「死の欲動」と「取りちがえる」「詐取」と別のものではない(かつて柄谷行人は、例えば坂口安吾にこの「崇高—死の欲動」を見たが、確かに安吾の、「人間」は「堕落」するものだという「人間」主義(「われわれは人間に戻ってきた」)は、非人間性からの「解放」という文芸復興的=ルネッサンスな戦後文学として捉えられよう)。

 

 そして、「転向」とは、この「詐取=取りちがえ」にほかならない。実際は「党」から「疎外」されている「負傷」者にすぎないにもかかわらず、かえってそれゆえに自らは「革命運動の革命的批判」(中野重治)が可能なポジションにいるという「詐取」である。「外的強制であれ内的要請であれ、はたまたなし崩しであれ、転向が遂行される時、その酔いからの覚醒は「負傷者」の――花田のクリシェを用いればパーソナルな――「自意識」としてあらわれる。これは「絶対的な相」から「疎外」されたことの疚しさであると同時に、自由の意識という「人間性」である。その疎外された自由の意識が、「絶対的な相」への批判を可能にする」(すが)。その心性が「転向小説=私小説」を醸成させもしたし、「むしろ」転向者こそ大衆をつかんでいる、したがって転向者こそ革命的だとする吉本隆明「転向論」的なレトリックに、ある種の説得力をもたせてもきたのである。

 

 そして、ここからは、すが論と離れるが、平野謙のような人間にとっては、小林多喜二の殉死の「崇高性」こそが、純文学の「純粋性」と結びつくことになる。

 

なんといっても小林多喜二の生涯を絶対視したい私どもの世代は、またかつての私小説を絶対視したい視点からのがれがたいのである。いまでも私には小林多喜二の『党生活者』と嘉村磯多の『途上』とは、ほぼ同質のものとして残像している。というより、党に殉じた小林多喜二の生涯と純文学に殉じた嘉村磯多の生涯とをほぼ等価で結びたい気持がつよいのである。この場合における党なり純文学なりの概念は、その純粋性においてひとつのシンボルを形成した。(『文学・昭和十年前後』一九七二年)

 

 平野が、「ともに世俗性をきびしく排除することによって、よく純粋性のシンボルとなり得た」という意味で共産党と純文学を「等価で結」ぶことができたのは、小林多喜二の殉死があったからだ。平野にとっては「純文学」とは、理念的には「プロレタリア文学」を指していたが(拙稿「なし崩しの果て――プチブルインテリゲンチャ平野謙」二〇一七年「子午線vol.5」参照)、その両者のつなぎ目に小林多喜二の死が横たわっているのである。両者は本来、ともに「純粋」で「崇高」でなければならない。もちろん、両者に対して殉死に至るのが最も「純粋」だが、「世俗性をきびしく排除すること」が出来ずに、徐々に通俗性にまみれて「不純」になっていく共産党や純文学にしがみついているよりは、より「純粋」な形態を目指して「転向」する方が、平野にとっては「純粋性」の「シンボル」に忠実な姿勢だった。平野において「転向」とは、不純な共産党に対する「分離=結合」(福本和夫)なのだ(平野にとっての「人民戦線」)。

 

 そして、この「純粋性」をめぐって、中村光夫らと純文学論争をたたかうことにもなる。おそらく、私小説=転向小説を批判し続けた中村と、私小説の純粋性を純文学の理想とした平野との分岐が、やがて「党」の純粋性が崩壊したかに見えたときに、その純粋性という「故郷」の「喪失」に、「天皇制」という別なる純粋で崇高な「故郷」を呼び込んでいった平野と、「天皇制」への批判を持続し得た中村との分岐となっていくのだ。

 

 この共産党の純粋性の崩壊と天皇制の問題は、中野重治の問題でもあろう。例の「村の家」の共産党が、大和=日本の「故郷」のメタファーで語られている問題である。

 

共産党天皇制が類似しているという、この、しばしば言われるアナロジーは、「村の家」に即して見た場合、どのようなことを意味しているのか。それは、そのどちらかに寄り添わない時には「狂気」におちいるという、「村の家」のヘルダーリン的な主題と関係しているだろう。それらは、寄り添う者を狂気から守る硬い核のような「もの」を内包していると見なされているのだ。(すが秀実『1968年』二〇〇六年)

 

 共産党天皇制とが「故郷=同心円」として見なされている時点で、すでに「転向」ではないかと思われるむきもあろう。だが、事はそう単純ではない。それは、第一次大戦後のグローバルなリベラリズムの席巻と無縁ではなく、それに対する「保守革命」の文脈を考えあわせる必要があるからだ。それは近代が内包する「故郷喪失」(ハイデガー)の磁場に逃れがたくある。

 

 冷戦が終焉しようとしまいと、冷戦の米ソの「平和共存」において、すでにソビエト社会主義リベラリズムの一変種となり果てていた。それは第一次大戦後と地続きな、リベラリズムしか勝たん!世界である。現在の「新冷戦」や「権威主義/民主主義」といった愚劣な見立てを退けるためにも、今なお「アフター・リベラリズム」(ウォーラーステイン)という視点が必要だろう。

 

 だが、そうである以上、リベラリズムという世俗化(フォニイ)の包囲に対して、すでに「喪失」されたものとして、崇高に屹立する純粋性=本来性を求めてやまない心性もまた、不可避的である。例えば、江藤淳が、『昭和の文人』で取り上げた平野謙中野重治堀辰雄を通して見たのは、彼らにとどまらないリベラリズムの波に飲み込まれた、日本人の日本人からの「転向」であった(拙稿「江藤淳新右翼」参照)。むろん、大塚英志も言うように、江藤自身が、世俗化(フォニイ)するサブカルチャーの波にのまれながら、「純粋」な「少女」としての「天皇」をフェティシズム的に求めていったのである。

 

(続く)