戦争をふせぐ歴史観――「党」のクビまで引っこ抜かないこと

 遅ればせながら、すが秀実花田清輝の「党」」(「群像」2022年3月)を読んだ。

 

 以前、何度か触れたことだが、花田清輝は、現代史を「〔…〕二つの戦争によってきりとらずに、逆にそれらの二つの戦争に終止符をうった二つの革命によって――つまり、ロシア革命と中国革命とによってきりとっ」た(「現代史の時代区分」一九六〇年)。戦争中心の歴史観から革命中止の歴史観へ。眼前の一九六〇年安保反対闘争が「ほとんどナショナリズムの立場からなされているということ」への批判として提示されたこの革命中心の歴史観を、一九六八年革命へと延長させ史論を書き継いでいったのが、すが秀実であることは論を俟たない。

 

 いまや、ロシアや中国に対して、少しでも肯定的に言おうものなら糾弾されかねない状況だが、言うまで もなく、花田のいう革命中心の歴史観と現在のロシアや中国とは何の関係もない。両国(ナショナル)が、どう読み替えようとも、とうに革命(インターナショナル)を本質的に喪失しているのは明らかだ。だが、後で触れるように、ある種の人々は、どうしても両者の区別ができないのである。「だからこそ」、次の花田の言葉は、現在改めて肝に銘じられるべきだろう。

 

むろん、平和主義者のなかには、荒正人のように、戦争も革命も嫌いだといったようなひともいるにちがいないが――しかし、戦争をふせぐための最後の切札が革命であり、その逆もまた真であるということを、くれぐれも忘れないでいただきたいとおもう。(「歌の誕生」一九五七年)

 

 もちろん、すでに革命の概念自体が見失われているいま、とても当時の花田のように「われわれは、第一次大戦後とは反対に、戦争にむかってではなく、革命にむかって、一歩、一歩、あるきつづけているわけである」と容易に信じることはできない。しかしこれまた、「だからこそ」、われわれは花田がスターリン批判を、スターリン個人への批判から切り離したことを想起すべきである。「誰よりもスターリン批判の必要を痛感したのは、スターリン自身」(「歌の誕生」)であり、したがってスターリン批判とは「スターリン自身の遺志による「自己批判」(「偶然の問題」一九五七年)だった、と。

 

 すがが、本稿の末尾で述べるように、スターリンや党を批判して、その「頭から帽子を引き抜いた」のは結構だが、「それを「クビまで引っこ抜いてしまっ」て、どうするのか、と」花田は言った。党の「帽子」は引き抜いたものの、なお残っている「クビ」を、すがは「花田清輝の「党」」と呼んだわけだ。それは先に述べたように、今後ますます加速していくだろう、ロシアと中国の「帽子」を引き抜く批判をあらかじめけん制すると同時に、「クビまで引っこ抜いてしま」わないような「理性を守る」「楯」を要請しているのである。

 

 花田は、中江兆民『一年有半』の「権略、これ決して悪字面にあらず、〔…〕ただ権略これを事にほどこすべし、これを人にほどこすべからず、正邪の別、ただこの一着に存す」に準えて、次のように言った。「「権略」を「事にほどこす」ことと、「人にほどこす」こととの区別がどうしてもわからないのが、わたしのいわゆる「モラリスト」と名づける人種であ」る(「日本における知識人の役割」一九五六年)。

 

 スターリン批判をスターリンという「人」に対する批判とみなし、現在のロシアや中国が駄目ならレーニン毛沢東もすべて駄目というような、一点の汚れも認めない道徳的な「人種」を、花田は「モラリスト」と呼び論争した。いわゆる「モラリスト論争」である。

 

 今や「モラリスト」たちは、ポリコレやキャンセルカルチャーとして増殖し、また例えば芸能人の不倫を裁かずにいられないような「人種」へと通俗化して跋扈している。なお「モラリスト論争」が重要だと思うゆえんだ。ふと見渡せば、今や「モラリスト」ばかりになってしまったのである。

 

数カ月前の『中央公論』で、わたしは、コンミュニストの山辺健太郎が、幸徳の直接行動論をナンセンスだといってせせら笑い、幸徳が、荒畑寒村の妻と恋愛したり、入獄中、離婚した師岡千代子の世話になったりしたというので、革命家の風上におけないほど堕落した人物だといってきめつけているのをみて、やれ、やれ、とおもった。山辺もまた、荒と同様プロテスタンティズムの倫理の信者だかどうだか知らないが、なかなかの道徳家である。

 E・H・カーの『浪漫的亡命者たち』のなかに描かれているゲルツェンやオガリョフのように、まるで義務みたいに友だちの女房と恋愛しなければならないとおもいこんでいる連中もコッケイだが――しかし、山辺のようなコチコチのモラリストもまた、困りものだ。恋愛の自由を肯定したことのないものに、プロレタリアートの自然発生的=本能的欲求が理解できるはずがないのである。(「日本における知識人の役割」)

 

 すがが言うように、「花田がもっとも強く「党」の正統性を主張したのは、スターリン批判がおおやけにされた一九五六年に、荒正人山室静埴谷雄高らとおこなったモラリスト論争においてであった」。にもかかわらず、スターリン批判が、スターリンという「帽子」のみならず、「党」の正統性という「クビ」まで引っこ抜いてしまったので、スターリン批判以降、「権略」を人にほどこしてやまない「モラリスト」=異端者の群れが世界を覆っていったのである。

 

 すると、『花田清輝 砂のペルソナ』(一九八二年)から出発したすがが、おおかたの嘲笑に逆らって、あえて一九六八年革命を「勝利」と主張してみせることで、花田の何をつかみ継承しようとしたのかが、より鮮明になってこよう。一九六八年革命史論を、スターリン批判から説き起こさねばならなかったのも、それによって、むしろ「六八年」を、単に「反スタ」に淵源していると捉えるべきではないと告げようとしたのではなかったか。「六八年」を反スタとしてのみ捉えてしまえば、それは「クビ」まで引っこ抜いた「モラリスト」たちの、「第二」ならぬ「第三」「第四」の「青春」(荒正人)にしかならないからだ。事実、「六八年」論の多くは、終焉した「青春」へのノスタルジーに終始したのである。

 

(続く)