大西巨人の「転向」(すが秀実)

 2月25日に行われた、上記講演(二松學舎大学における公開ワークショップ「大西巨人の現在 文学と革命」にて)を拝聴。聴衆の誰もが感じただろうが、きわめてスリリング、圧巻の内容だった。今後、何らかの形で活字になる可能性もあるだろうから、ここでは私的な感想のみを。

 一言で言えば、転向問題の、したがって革命概念のパラダイムチェンジが提起されたのではないか。

 無謬の人のように思われてきた大西巨人に「転向」を見出すという視角が、まず挑発的だ(それはいまだ定まらぬ、大西の年譜問題にも関わろう)。もちろん、同時にそれは、「転向」者によってのみ、「革命運動の革命的批判」(中野重治)が可能なのだということを、より明確にすることでもある。

 おそらく、このことは、すがと渡部直己による大西へのインタビュー「小説と「この人を見よ」」(『批評空間』Ⅱー24、二〇〇〇年)において、すでにすがが次のように指摘していたことでもある。「ぼくは以前から大西さんが中野(重治)について書くときには何か奥歯にものの引っかかった言い方をされているという印象があって、もっとスパッと批判すればいいのに、とよく思ったものでした」。端的に言えば、やはり中野重治は、宮本顕治=キリスト、転向者=ユダというパラダイムにずっと囚われていたのではないか、一九五二年、高名な「俗情との結託」によって宮本と論争した大西は、いち早くそのパラダイムを批判し得た存在だったのではなかったかという問題である。

 では、それに対して、大西が示したパラダイムはいかなるものだったのか。それは、「認知症」としての「転向」と捉えられるべきものではなかったか(ここから『神聖喜劇』の「知りません/忘れました」も読み直される視点は白眉)、またそう捉えることで、大西の「転向―革命」(=転向者によってのみ可能な革命運動の革命的批判)は、冷戦後の現在においてアクチュアルな様相を帯びてくるのではないか。これが、すがの問題提起の一つである。

 ここで思い出されるのは、かつてすがが、吉本隆明の「非知」(『最後の親鸞』一九八一年)という概念に「ボケ」とルビを振っていたことだ。知られるとおり、吉本は「転向論」(一九五八年)で転向のパラダイムチェンジを行った。それが「大衆(の原像)」から遊離しているという理由で、宮本顕治の非転向を転向とし、一方中野重治の転向を非転向と見なしたのだ。

 これは、転向と非転向、知識人と大衆の序列にコペルニクス的転換をもたらした(磯田光一)。このとき吉本は、いまふうに言えば、大衆の「反知性主義」につこうとしたわけだ。知識人の「最後の課題」としての「非知」は、その必然的な帰結である。「愚者にとって〈愚〉はそれ自体であるが、知者にとって〈愚〉は、近づくのが不可能なほど遠くある最後の課題である」。

 ならば、同様に宮本顕治を批判した大西が、この中野―吉本とどう重なり、どうズレるのかが明らかにされなければならない。先のインタビューで、すがが大西と共産党との「絶縁状態」(齋藤秀昭)について、「実際のところ、本当の理由はなんだったんですか」と執拗に食い下がったのも、この点に関わるからだろう。「そもそも大西さんは五〇年代から宮本顕治批判をしておられたわけで、共産党を離れるのが六一年でなければならない理由が分からないんです」。

 今回すがが、大西の「転向」を「認知症」という概念で捉え直そうとしたのは、この中野―吉本の「大衆―非知(ボケ)」との差異を明確にするためではなかったか。後者は、「非」知と言っている時点でまだ「知」にとらわれており、だからこそ主体的な「最後の課題」にもなる。それはいまだ「知識人―大衆」、「知―非知」、あるいは「キリスト―ユダ」という二項対立のパラダイムの中にある。だが、前者においては、その二項対立はすでにディコンストラクトされており、そこでは「転向」は受動的で不可避的な位相で捉えられているのだ。

 冷戦後、マルクス主義共産主義は不可避的に失効した。それにともなって、コミンテルンの権威を背景にしていた共産党(講座派)の、いわゆる二段階革命論の二段階目もすでにリアリティを喪失している。ならば、今や根底的に革命の概念を変更する必要があろう。

 とりわけ、最近の『天皇制の隠語(ジャーゴン)』、『タイム・スリップの断崖で』において、さかんに天皇制あるいは共和制(の不在)が問題提起されていることは、すがが二段階目なき一段階目における革命―転向の思考へと「移動」しつつあることを告げている。この先見性とフットワークこそ、この批評家の凄みだ。だが、これは、講演のほんの一部、しかも私的な感想にすぎない。その転向―革命論の全貌がクリアになるには、4月に刊行予定という柳田国男論を待たねばならないだろう。

中島一夫