文学は故郷を失ったことなどない

 すが秀実の「「鬱」とナショナリズム」(「ユリイカ」二〇〇四年五月)は、確か単行本未収録だが、天皇制と民主主義とが――すなわち日本近代文学の起源において創設された「国民」(ネーション)が――矛盾なく受け取られている今日、ますます重要な批評としてある。そこには、この十年後に『天皇制の隠語』(二〇一四年)の4節「「労農派」的転回とコモンウェルス」として理論的に明確化する、柄谷行人日本近代文学の起源』(以下『起源』、一九八〇年)への批判の核心が、すでに内包されている。

 

 それは、『起源』が、いかにして天皇制を不問に付すこととなったのか、にほかならない。『起源』は、日本近代文学の起源を論じる、今やカノンともいえる一冊でありながら(あるために?)、天皇制問題をオミットしてしまった。古典文学のみならず、日本近代文学もまた天皇制の産物であるという「起源」を、ついに主題化し得なかったのである。すなわち、『起源』は起源を回避してしまったのだ、と。

 

 すがは、それについて、さりげなく次のように指摘する。

 

別段、日本に限ったことではなく、ルカーチが小説を「先験的な故郷喪失の形式」と規定したように(あるいは、ルカーチが念頭に置くヘーゲルが近代小説を「近代のブルジョア叙事詩」と定義して以来)、近代文学がおおむね「故郷喪失」によって特徴づけられるメランコリックな時空間だということは、誰もが知っている。〔…〕かかるメランコリックな「喪失」感はカント的「崇高」の概念とも呼応している。絶対的な自然(たとえば、ナイアガラ瀑布?)を前にしてもたらされる崇高の感情は、「死すべき者」のメランコリックな無力感と相補的だからである。いうまでもなく、これは「内面という制度」(柄谷行人)とも言われる事態だが、ここで、そのことをメランコリーと呼んでみるのは、それが「欲望」とかかわるからであり、内面として表象してみる時、それが捉えがたくなると思われるからである。

 

 柄谷の『起源』が、「内面」の制度性=政治性をはじめて論じた画期的な批評であることは論を俟たない。だが、それは真に「政治」性だったのか。すがが、「内面」ではなく、「メランコリー」という「欲望」でもって「起源」を捉え直そうとするのは、そのことを明るみにするためだ。

 

 柄谷『起源』は、日本近代文学が、言文一致運動あるいは制度によって成立したというパースペクティヴを決定的に導入した。以降、それに異論を唱えようと、修正を試みようと、基本的にこのパースペクティヴの枠内にある。いまや、言文一致を無視して、日本近代文学は語り得ない。

 

明治二十年代の「内面性」がそのような政治的な挫折から来ているということは明瞭である。実際、そのような視点に立った研究や批評は無数にある。そして、文学はきまって、内面性によって制度に対抗するというイメージで語られる。しかし、私がここでそのような見方をあえて避けてきたのは、その前に、内面性がある種の装置(制度)の中で可能になるということをいいたかったからである。そのような制度が不問に付されるかぎり、「政治的な挫折から内面=文学へ」というパターンが不毛にくりかえされるだけである。明治二十年代が重要なのは、憲法や議会のような制度が確立されただけでなく、制度とは見えないような制度――内面や風景――が確立されたからである。

 

 「文学はきまって、内面性によって制度に対抗するというイメージで語られる」、「政治的な挫折から内面=文学へ」。「内向の世代」どころではない。それどころか、柄谷は、この後者の「内向=内面=文学」自体の「制度」性を、はじめて明確に批判した批評家なのである。それに対して、すがが問おうとしたのは、次のことだ。だが、「政治」があらかじめ「挫折」していたとしたら?

 

誰もがそう言うように、日本の近代文学自由民権運動の「挫折」から出発した。しかし、そのことは主に北村透谷を中心とするメランコリーの系譜について言われてきたことであり、『新体詩抄』や『小説神髄』については、そう指摘されることが少なかったのではあるまいか。両者は基本的には近代化を志向する「文明開化」の文脈で捉えられてきたのである。しかし、『新体詩抄』においてすでにメランコリックな詩作品が存在し、それが後発者たちへと継承されたことが明らかなのであれば、『新体詩抄』にしてからが、すでに自由民権運動の「挫折」という文脈において捉えることが可能である。しかし、自由民権運動なるものは、その運動の結果「挫折」したのではない。自由民権運動という挫折があったのだ。それは、あらかじめ挫折した運動だったのであり、それゆえメランコリーはそのア・プリオリな性格だったと言うべきである。

 

 すがによる起源の問い直しの核心は、柄谷が二葉亭や独歩、あるいは前島密などを重視したのに対して、『新体詩抄』と『小説神髄』を「改めて」起源として提示した点にあろう。「『新体詩抄』も『小説神髄』も、起源でありながら起源であることを否認されてきた書物であるが故に、あらためて考察するに足るものなのだ。その、あからさまな「否認」において、ひそかに作動していたのが、ナショナリズムとメランコリーの通底という事態なのである」。

 

 では、いったいなぜ、自由民権運動は「あらかじめ挫折した運動だった」のか。

 

詔勅」以降にメランコリックな主体が登場する理由は、壮士の国会開設という要求が、天皇によって約束されてしまったからにほかならない。そこに「ポスト・フェストゥム」(木村敏)の意識が浸透しはじめたのである。しかも問題は、天皇が壮士の要求したものを「下賜」するという手続きが、実は、それは(国会開設と憲法発布)が天皇自身の欲望の対象でしかなかったことを証してしまうことだ。自由民権運動において、壮士たちの欲望の対象は、あらかじめ不在だったのだ。そもそも、彼らが天皇に言っていたことは、それはわれわれの欲望である以上に、あなたの欲望(の対象)ではないか(だから国会を開設せよ)、ということではなかったか。

 

 ここにおいて、すがが、日本近代文学の起源を、メランコリックな「欲望」として捉えようとした意図がにわかに鮮明になる。まさに「欲望とは他者の欲望である」(ヘーゲル)。自由民権運動の「欲望」は、もともと天皇=他者の欲望だったということだ。すると、自由民権運動とは、天皇の欲望を実現するための、ナショナリズムの運動ということになる。

 

 ここで、メランコリックな主体の代表ともいえる、夏目漱石『こころ』(=内面!)の「K」を、すがが「主体=天皇=King」と読んだことを想起してもよい(『日本近代文学の誕生』一九九五年)。「K」の「欲望」を、「先生=メランコリックな書生」は「後」から模倣し欲望していき、それをまた「学生」の「私」が反復していく。このメランコリックな主体たち(『こころ』で「私」と呼ばれる者たち)による「欲望の三角形」の反復=連続によって、ヘーゲル的な市民社会が形成されていく。『こころ』は大逆事件の衝撃を受けて書かれており、近代文学が、国家をアンタッチャブルにしておくための、緩衝地帯たる市民社会を醸成する「装置」であることを典型的に示している。もちろん、それ自体、一方で漱石が、「従軍行」や「満韓ところどころ」を書いたナショナリズム=差別と「一対」のメランコリーである。メランコリーは、ナショナリズムと別のものではなく、「メランコリー自体がナショナリズムの政治的表現」なのだ。

 

 先の引用で、柄谷は「明治二十年代が重要なのは、憲法や議会のような制度が確立されただけでなく、制度とは見えないような制度――内面や風景――が確立されたからである」と言って、「内面」の制度性を批判した。だが、「内面」は、憲法や国会の「制度」性と別のものではない。すがが主題化したのは、むしろそのことなのだ。

 

 そもそも、カール・シュミット的な意味での、例外状況における「主権者」たり得ない国民は、憲法や国会を作る(権力の)「主体」ではあり得ない。もともと、憲法や国会は、「下賜」されたものとしてしか存在し得ないわけだ。したがって、それらは「国民国家を構成する空虚な欠如」でしかない。国民とは、「内面」化したのではなく、はじめから「内面」でしかない存在なのだ。

 

そのような欠如としての対象を、再び国民主権的な立場から我有化しようとすれば、それは、かつては我がものであったはずのものが――たとえば、それが理想とは異なっているとして――「喪失」した、と表象するほかはない。それゆえ、近代文学が形成してきたメランコリックな主体は、即自的には、デモクラティックな国民的(=市民的)主体だとは言える。

 

 カルチュラル・スタディーズは、国民国家が歴史的、社会的に構成されたものだとする「社会構築主義」を展開し、この「空虚な欠如」を曖昧に埋めてしまった。それが社会的に構成されたものだというロジックは、何ら「空虚な欠如」に働きかけるものではないからだ。近代文学や言文一致は構築された「制度」であると主張した柄谷『起源』も、下手をするとその文脈に回収されかねない。それらに欠けているのは、「誰が」それを欲望しているのかという、「欲望」の「主体」への視線である。

 

(続く)