小谷野敦氏の批判について

 小谷野敦が、拙稿「江藤淳のプラス・ワン」(「子午線vol6」)を次のように批判している。

中島は江藤が、日本国憲法第一条について、「しかし、この第一条を即物的に読めばはっきりしていることは、いわゆる「主権在民」です。「主権在民」という以上は、これはなによりもまず共和政体を規定した条項と読める」と語ったのを引いている。しかし、「共和制」といえば一般的には君主がいない国の形態を言うので、江藤は何か錯乱しており、まるで宮澤俊義のような憲法解釈をほどこしていき、中島はそれに沿って江藤を論じて行く。しかし「主権在民」と言っても共和制とは限らない、立憲君主制というのも主権在民で、江藤は民主制と共和制を混同している。江藤は天皇制を「共和制プラス・ワン」だなどと言うのだが、そんなことを言ったらすべての立憲君主国は「共和制プラス・ワン」であって、別段ことあげするには足りない。(「坂東玉三郎と文学」『出版ニュース』2018年10月下)

 したがって、「中島の論考は、江藤淳の過大評価だろう」と小谷野は言う。拙稿が江藤の「過大評価」だというのは、私は批評とは「過大評価」だと考えているので別にいいのだが、小谷野が「江藤は民主制と共和制を混同している」というのは、あまりにも江藤を過小評価してはいないか。むしろ江藤はそうした「混同」を避けるために、あえて「民主制」と言わず、「共和制」か「(立憲)君主制」かという対立で日本の政体を考えようとしていたからだ。これは、江藤が「主権」を、平時日常=平和時ではなく、「例外状況」(シュミット)のもとで考えていたことを意味する。

 拙稿で詳しく論じたので繰り返さないが、江藤は一貫して「八・一五革命」説や「戦後民主主義」を、すなわち「戦後」の「平和=平時日常」の欺瞞性を批判してきた。その過程で現行憲法第一条と第二条の矛盾に行き着いたのである。第二条は立憲君主制を確定しているが、第一条はそれと矛盾するように、共和制の可能性を胚胎していると読める、と。

 おそらく、小谷野はそれを「錯乱」というのだろうが、「八・一五革命」説を批判し続けてきた江藤は、批判し続けたゆえにその「革命」性と真剣に、ある意味で、「八・一五革命」説の主張者である丸山真男宮澤俊義よりも真剣に向き合ってしまったといえる。つまり、「革命」というからには、「王殺し」と「共和制」とがそこには含まれていよう、と。江藤は本気でこれに「怯え」ていたのではないか。

 拙稿は、「怯え」という言葉で、まさにこの江藤の「錯乱」を論じたものである。この「怯え」や「錯乱」は、やがて「日本は君主国だ」と主張するところに江藤を向かわせる(だから「天皇礼賛」に見える)。先日の記事でも書いたように、これはプロイセン立憲君主制を理想としたヘーゲルを彷彿とさせるが、これも「過大評価」だろうか。

 いずれにせよ、憲法はそのように共和制(第一条)か君主制(第二条)かで分裂しているのに、それを曖昧に「混同」させてしまったのが、「戦後民主主義」(あるいは「象徴天皇制」)だ、と江藤は批判したのだ。繰り返せば、江藤にとって、共和制と民主制とはまったく異質なもので、民主制は共和制と君主制とを癒着させるものとしてあった。それが「戦後」だった、と。

さきほどの区切り方の問題でいえば、「戦後民主主義」とは、冷たい法令の条項によってくっきりと区切られているものを、あたかも区切られていないかのように看做すということになるでしょう。現行憲法の条項では、共和制か君主制かという二者択一をチラつかせた区切り方が冷徹になされているものを、民主主義という雰囲気で二つ一緒にまとめて区切り直す。そうすると、あたかも矛盾も分裂も存在しないようかのような判断停止と、知的水準の低下が生じる。黙契の支配する社会に、真の知的創造などあり得べくもないからです」。(「遺された欺瞞」、『天皇とその時代』)


 それとはまた別の話だが、拙稿では触れなかったものの、先のように江藤が「怯え」、「錯乱」していった背景には、いわゆる「開かれた皇室論」のリアリティがあったと思われる。これについては、また後日、記したい。

中島一夫