ポピュリストの嘘と猥褻

 ジジェクは、ポピュリストの指導者を「新しい猥褻な〈主〉(マスター)」と呼び、その「猥褻」と「嘘」とを対比させている。例えば、二〇二〇年八月、トランプは郵便公社への補助金を打ち切る計画を発表したが、その魂胆を暴くのに複雑な分析はいらないという。

 

なぜなら、郵便公社への支援停止を決めた理由を聞かれたトランプは、「民主党に投票する人を減らすためだ」としゃあしゃあと答えたのだ。嘘をつくことは何らかの道徳規範を暗に意識している(分かっていて規範を破っている)ことを意味するが、この場合のトランプは嘘をつくよりひどい。文字どおりの真実を言うことによって、真実の重要性そのものを無効化(宙づりにする)ことをやっているのだ。(『パンデミック!2』中林敦子訳)

 

 「嘘」は、まだ背後に道徳や規範が存在する。それらがあるから、嘘が嘘として機能するのである。だが、トランプの身も蓋もない、いけしゃあしゃあと繰り出す、あからさまで「文字通りの真実」は、本来隠されるべきことだ。それは表に現れてしまえば、「真実の重要性そのものを無効化してしまう」。だからそれは「嘘をつくよりひどい」のだ。

 

 Qアノン(極右の陰謀論)を容認する発言についても同じことがいえる。トランプは、Qアノンを真に受けているとは言わずに、二つの「事実」だけを述べた。すなわち、Qアノンを信奉する人々は自分の支持者であるということと、彼らがアメリカを愛する愛国者だということである。さらに、「彼らの支援に感謝している」と付け加えたが、それ自体もまた主観的な「事実」だ。「ここがトランプのトランプたるゆえんである。〈事実の真理(factual truth)〉の問題は視野に入って来ないのだ。よって我々はとりとめもない、言わば〝ポスト真実の空間〟にずるずると引きずり込まれてしまう。そこは前近代的な迷信(陰謀論)とポストモダンの皮肉な懐疑論の間だけを行ったり来たりする空間である。」

 

 ポピュリズムの〈主〉は、王様本人が自慢げに「自分は何も着ていない」文字通り「裸の王様だ」と公言してしまう。そして本当に、彼は背後に(服や仮面の下に)何か威厳を隠しているような人物ではないのだ。「彼は猥褻性を品位の仮面に見せようとする(公然と)猥褻な人物なのである」。

 

 それは「嘘」が、まだ服の下に道徳や規範を隠しもっていたのと対照的である。彼は、「ほら、そんなものは身に着けていないだろ」と進んで服を脱いでみせることで、嘘/真実の区分自体を無化したのだ。「ポスト真実」とは、同時に「ポスト嘘」にほかならない。そして、ポピュリズムの〈主〉は、裸の王様であることを自ら暴露するのだ。この、いつも裸であることを吹聴してまわる猥褻性が、今や〈主〉として君臨しているのである。いや、それが新しい〈主〉の資格なのだとばかりに、〈主〉の位置は変えられてしまったのだ。まさに、「現代文明」は、「裸であれ=露出せよ!」という命令に貫かれているわけである(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』)。

 

 重要なのは、これが「68年」の反革命的な帰結であるということだ。

 

従来(あるいは、少なくとも伝統を振り返ってみたときに)、恥知らずの猥褻性は、伝統的な支配を揺るがすもの、〈主(the Master)〉から偽りの品位を奪うものとして、破壊的に作用した。若かりし一九六〇年代、抗議運動をする学生たちは権力者を狼狽させる目的で、猥褻な言葉やジェスチャーを好んで使ったのを思い出す。そうやって政治家の偽善を糾弾した。しかし、公共の猥褻性の増長とともに今起きていることは、権威の喪失や主となる人物たち(Master figures)の退場どころか、力強い再登場である。我々は数十年前には想像もつかなかったもの、猥褻な〈主〉を迎えようとしているわけだ。(『パンデミック!2』)

 

 68年と60年の違いは、例えば後者の学生は、教員とともに制服でデモに繰り出したのに対して、前者はそれら一切を軽蔑したことだと言われる。68年は、制服どころか時に胸をはだけさせ、露骨にコミュニケーションを拒絶した。「権力者を狼狽させる目的で、猥褻な言葉やジェスチャーを好んで使」い、彼らの「偽善を糾弾した」のだ。だが、その結果、「父は消えた」(尾辻克彦)=「権威の喪失や主となる人物たちの退場」どころか、現在のポピュリズムの「猥褻な〈主〉」の登場を招いているのである。

 

 現在のポピュリズムの「主」の台頭を見極めるために、それを言説のレベルにおいて、「68年」の帰結として捉える必要があろう。例えば、その時想起されるのは、なぜ68年に保田與重郎のロマン的イロニーが回帰してきたのかということだ。おそらく、長濱一眞が、保田と中井正一のロマン的イロニーは抵抗たり得るかをめぐる論争に向かったのは、この問題を思考するためではなかったか(『近代のはずみ、ひずみ』)。以前にも触れたが、

 

knakajii.hatenablog.com

それはまさに、「嘘」や「偽」をめぐる反革命的な「転向」を問う論争でもあったからだ。

 

(続く)