地獄でなぜ悪い(園子温)その1

 途中から映画館が一体となっていることが分かる。
 「よーい」という掛け声の後「スタート」が聞こえるまでの「間」、観客全員が固唾をのんで見守っているのが肌で感じられる。こんなに見ていて体が火照ってくる映画もひさしぶりだ。

 パゾリーニのデビュー作に立ち会ったベルトルッチは、撮影について何も知らないパゾリーニが、カメラを横移動させるためのレールを買ってくるところから始めようとする様子を見て、「まるで世界最初の映画の創造に立ち会っているかのようだった」ともらしたという。

 初めての映画制作に乗り出すヤクザたち。そして、いつか生涯の一本を作ろうと誓いあいながらも、8ミリやビデオで「予告編」を撮影するばかりで、35ミリフィルムなど扱ったことのない映画集団「ファックボンバーズ」の4人組。

 ひょんなことからタッグを組むことになった両者は、組長の妻の出所祝いに映画を作ることを迫られ、ならばいっそ現在抗争中の組に殴りこみをかけるのを、そのまま映画として撮影してしまおうとする。そんな破れかぶれで破天荒な話を繰り出す本作は、まさに「世界最初の映画の創造に立ち会っているかのような」エネルギーと興奮に満ちている。

 だからこの作品を、やれ深作へのオマージュだ、タランティーノの影響だ、ゴダールからの引用だと評してもはじまらないだろう。本作は、そんなシネフィル的な洗練からは限りなく遠い。素人集団が、使い方もよく分からない機材を振り回しては行きあたりばったりに、とにかくはじめてヤクザ映画を撮ってしまったという、その何ともいえない青臭さ(実際、20年前の脚本だという)。

 冒頭、いきなり子役の女の子が歌って踊る、歯磨きのCMから始まる。一瞬観客は、この映像が、それまでスクリーンに流れていたCM映像の続きなのか、それともすでに本編に突入しているのか、とまどうことになる。

 ある意味で、ここにこの作品最大の目論見があろう。すなわち、今見ているこの映像は現実なのか、それともフィクションの世界に入り込んでいるのか、容易には見分けがつかなくなること。この作品は、この虚と実の境目を何度となくひょいひょいと跨いでみせる。映画に対して適度に距離をとることを許さず、いわば映画を「生きる」ことを希求している作品なのだ。まずもって「地獄」とは、この、映画にどっぷりはまることにほかならない。

 物語は、三つの話がバラバラに進行し、やがて一つに折り重なっていく。まずは、冒頭のCMの少女が、映画の主演女優へと成長していく話。CM(映画の前=外)から映画(本編=内)への進出だ。

 次に、ヤクザたちが、自分たちの殴り込みを映画に撮ろうとする話。自らが撮影・制作する主体であるとともに、演じる客体でもあることで、これまた虚と実を越境する構造が出来上がる。

 最後に、ずっと生涯の一本を夢見ている映画制作集団ファックボンバーズの話。彼らもまた、登場シーンからして、卵をぶつけ合う虚構の映画の撮影中に、実際に不良学生たちの喧嘩に遭遇し、急遽カメラをそちらに切り替えることになる。

 こうして三つの話とも、それぞれに虚と実を越境する。やがてそれらが収斂していくなかで、虚と実とがうねるように混然となり、観客をその渦の中へと巻き込んでいくことになるのだ。

中島一夫