深田晃司は、ずっと「間=あわい」に立ち騒ぐ〝何か〟を撮ってきた人だ。
旧作のタイトルでいえば、「ほとり」や「淵」を見つめてきた人。
ある事件が起きる。
でも、この監督が捉えるのは直接の加害者や被害者ではない。
加害と被害に分岐する手前の、両者の「間」にある、人、もの、感情だ。
報道や周囲の目、とりわけその言葉というやつは、この「間」に生起する〝何か〟を、どちらかの陣営に取り込まねば気が済まない。
美術館のカタログが、ひまわりの絵を、「生」と「死」とに振り分けて説明しようとするように。
そうしないと「表現」し得ないから。
言葉はいつも「間」に無力だ。
だからこそ、そこには、「間」を無理矢理「言葉」へと落とし込もうとする暴力が働く。
「間」の〝何か〟は、ただただ受動的に暴力に巻き込まれるほかはない。
その立ち騒ぎに、監督はカメラを回す。
加害者の、母親でなく叔母でしかない市子(筒井真理子)は、いつ「加害者」になるのか。
市子に憧れ、同一化しようとしていた基子(市川実日子)は、いつ市子の「敵」になるのか。
また、基子の市子への感情は、いつ憧れ以上のものになるのか。
動物にすぎなかった人間は、いつ「男」になり「女」になるのか。
性への関心や欲望は、いつ「愛」になるのか。
言葉を与えられた「間」の〝何か〟は、もうそれで「決定」なのか。
市子が結婚してしまうと聞いて、焦った基子はこう言う。
「それって決定なんですか?」
市子の訪問看護師という仕事も「間=あわい」に立つ仕事だ。
訪問看護師は、家の中に入り込み、家族が抱える困難にともに取り組む、半分内で半分外の存在だから。
だから、一度信頼を失ってしまえば、家族にとっては一家を崩壊されかねない、内部に侵入してきた脅威=エイリアンとなる。
市子はリサとなる。
犬となった市子=リサは、家の中の存在か外の存在か。
一挙に彼女の横顔は、文字通り「よこがお=あまり知られていないその人の一面」となっていく。
リサなど誰も知らない。
そして誰も知らない「よこがお」は、だからこそ都合の良い言葉や物語を得て、いかようにも解釈され、一人歩きしていくだろう。
市子が小さな男の子だった甥のパンツを下げれば、たとえそんな気がなくても、それは「性的な導きをした」という物語となっていくように。
いかなる形、どのような大きさの「よこがお」も、鏡に、カメラに収まっていく。
鏡の中、カメラの中の市子のよこがおを、人は知っているか。
作品自体が、女優筒井真理子のよこがおに翻弄されていく。
七変化に映る女優の魅力にとりつかれたように。
あいかわらず、いやらしいほどにうまい。
エンドロールの静寂は、バックミラーのように映画を振り返っては、観客たちに主人公のよこがおを思い返させてやまない。
やがて、静寂の「間=あわい」から街のざわめきが戻ってくる。
ようやく観客は我に返り、自分が夢と現実の「間=あわい」におり、いつのまにか映画の半分内、半分外に立たされていると思う。
(中島一夫)