アバター(ジェイムズ・キャメロン)

 162分にわたる、壮大な「アトラクション」である。
 決して否定的な意味で言っているのではない。冒頭から思わず、驚嘆の声をもらさずにいられない、精巧でハイパーリアルな3D映像からは、自ら複眼的な二つレンズ付きの重いカメラを背負い、さまざまな角度から撮るべく、ひたすら俳優にからみつくように撮影を続けたという、キャメロン監督の妥協のない奮闘ぶりがうかがえて、ただただ感服させられる。

 サイのような猛獣の突進に思わずのけぞり、鳥にまたがっての急降下には力が入る。地面に体を打ちつけられるすれすれで飛び上がり舞い踊る飛翔感はどうだろう。

 ひょっとしたら、われわれは、1895年12月28日のパリ・グランカフェの驚嘆――リュミエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」の映像に、思わず観客が後ずさりしたという――を経験しているのかもしれない。おそらく、今後の3D映像の進歩は、われわれの「リアリティ」を一変せずにおかないだろう。『アバター』の映像は、われわれに、そうした歴史のとば口に立ち会っている感覚を抱かせる。

 もちろん、3D映像は以前から数多く存在した(真っ先に思い出すのは、東京ディズニーランドのアトラクション、マイケル・ジャクソンの3Dシアターだ。もう何年も(いや何十年か?)ディズニーランドに行っていないのでうろ覚えだが、それはせいぜい15分か20分くらいの映像だったと思う)。

 今回、久し振りに格段に進化した3D映像を見て思ったのも、やはりわれわれはいまだ、3D映像を「体感」する段階にあるのではないか、ということだ。何が言いたいのかというと、『アバター』という作品を、物語や題材のレベルで云々しても仕方がないのではないかということである。

 もちろん、例えばスラヴォイ・ジジェクのように(「New Statesman」2010・3・4 http://www.newstatesman.com/film/2010/03/avatar-reality-love-couple-sex)、キャメロン作品に、ロウアークラスの闘争を観念的に美化することで「白人」の良心を満たそうとする、典型的な「ハリウッド・マルクス主義」を見出すことについて、特に異論があるわけではない。

 確かに、異星「パンドラ」の原住民「ナヴィ」らが、三つ編の髪をプラグにして、自然や動物、他のナヴィらと同調、連帯、共生するという世界観には、原始共産制への回帰願望やエコロジー的なユートピアへの安易な欲望が見え隠れすることは否めない。ジジェクは、「Outlook India」の記事を引きながら、『アバター』のシチュエーションそっくりの現実が、インドのオリッサ州で展開されていることを指摘し、次のようにいう。

 「ここオリッサには、白人のヒーローが助けに来るのを待っているような高貴な王女がいるわけでもない。(中略)『アバター』に感動し、原住民のナヴィらを称賛するような人々こそが、往々にして、現実において反逆する「ナヴィ」(=反乱するオリッサのマオイストたち)などがいたりすれば、一転して彼らを、殺人的なテロリストとして退けるのだ。真のアバター(化身)とは、(現実をファンタジーに変えてしまう)作品『アバター』そのものだといえる」。(結論部を意訳)

 もちろん、原住民の「ナヴィ」が、大佐によって「野蛮人」と呼ばれる一方で、身長は人類の1.5倍で青色の肌をもち、体型は一様にスリムで、女性は皆スーパーモデルかミスユニバースのようだというその造形を見るにつけても、ジジェクならずともPCを発動したくもなろう。

 物語や題材のレベルで見れば、この作品は、正直「正しくない」ばかりか「陳腐」だ。ただ、やれポカホンタスの神話だ、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』だ、いや『マトリックス』や『7月4日に生まれて』にも似ているぞ、などと言いたてたところで(実際、類似作品は枚挙に暇がない)はじまらないのではないか(もはや、更新されるのは、技術だけなのかという感慨を抱かせるが)。

 実際、私は全編見終わったあと、視神経を異常に刺激されたためか、まるで異星「パンドラ」から現実に戻ってきた「ジェイク」のようにくたくたに疲れてしまった(ゲームなどをやらないので、この種の映像を見慣れていないだけかもしれない)。もし、これで物語が複雑で充実していたら、おそらく肉体的に受けつけられなかっただろう。キャメロンは、観客に映像美に集中してほしいばかりに、極力物語を保守化、単純化したのでは、とさえ思ったほどだ。いや、「ジェイク」は、「頭がからっぽ」だからこそ、訓練ゼロでも「アバター」にシンクロできたのではなかったか。

 実際、映像表現という次元を無視するなら、映画など何でもないし、そもそも映画とは見世物ではないかということもまた事実だろう。少なくとも、次々と歴史を塗り替えている驚異的な『アバター』の興収記録は、観客が何を求めて映画館まで足を運んだかを示している。まさか、リピーターはみな保守的で、誰もが共感できるピュアで単純な物語を再確認しに来ているわけでもないだろう。誤解を恐れずにいえば、『アバター』の最大の魅力は、ジェイク同様、「頭をからっぽ」にして映像を体験できるところにあるのだ。

中島一夫