インビクタス/負けざる者たち(クリント・イーストウッド)

 これは、ネルソン・マンデラの映画ではない。
 この作品を見ても、マンデラの業績や足跡、手腕など、マンデラがどういう人物だったのかを、われわれがすでに知っている以上に知ることはできない。有名な27年間の獄中生活も、回想シーンがあるだけだ(「約30年間の」獄中生活、と字幕まで曖昧化されていた)。

 これは、(反)アパルトヘイトの映画でもない。
 冒頭、白人中心のラグビーチームと、裸足でサッカーをする黒人の子供達の間を、マンデラの車が通り過ぎる。あるいは、大統領府の白人スタッフは解雇されずに残留、マンデラの警護も、黒人だけでなく白人の公安を含んだ編成になっている。確かにこういったシーンは、アパルトヘイトの歴史が一新されていく様子を手際よく伝えていくものの、いかにも図式的な感じは否めない。

 では、ラグビー映画か。
 アップで映し出される肉体と肉体のぶつかり合い、あるいはスローの多用などは、その生々しさと迫力を倍化する。それだけでも十分に見る者をひきつける映像だ。だが、そうした、あらゆるものを削ぎ取ったようなシンプルさを、『チェンジリング』、『グラン・トリノ』まで行き着いてしまったイーストウッドが、今あえてやってみせる必要が本当にあったのだろうか。

 いったい、新作は、何を撮ろうとしたのか。
 『チェンジリング』、『グラン・トリノ』の後ということを素直に考えれば、やはりそれは、前者で示唆した「希望」の実現を、後者で果たし切れなかった人種や民族の差別を乗り越えることにおいて果たそうとする、強い意志だったのではないだろうか。こうした「希望」を、「能天気だ」と笑いたい者は笑えばよい――。イーストウッドは、そう言っているように思える。

 冒頭に現れる新聞配達の車も、低空飛行でラグビー場をかすめるジェット機も、一瞬画面に「テロか」と緊張を走らせはするものの、次の瞬間あっさりとそれは解除される。だが、これは、思わせぶりなサスペンスなどではない。「現実が悪しき映画のようになっている」と言ったドゥルーズではないが、おそらくこのときイーストウッドは、テロなら、わざわざ映画で見せるまでもなく、現実の世界にあふれているではないか、と言いたいのだ。「世界に対する信頼を取り戻し、その絆を撮ること」。ドゥルーズが語るこの現代映画の使命を、新作のイーストウッドほど真摯に果たそうとした者が、最近ほかにいるだろうか。

 私は、この作品を見ていて、竹内好が言っていた「「よき」ナショナリズム」というのをふいに思い出した。反革命ではなく、革命に結びつくナショナリズムを、竹内は「よき」「正しき」ナショナリズムと呼び、敗戦トラウマのごとき「ナショナリズム=悪」という短絡を退けた。

 竹内は、例えば、「ドレイとドレイの主人とは同じものだ」といって支配と被支配の関係そのものをディコンストラクトしようとした魯迅に、その具体的実践を見出した。帝国主義に直結する西欧型のナショナリズムではない形で、南アフリカに本質的な「誇り」を取り戻そうとした、このネルソン・マンデラについても同様なことがいえよう。

 その実践が、ラグビーW杯に向けた、いわばスポーツのナショナリズムだったのではないか。先日のバンクーバー・オリンピックの熱狂を思い返しても、いったい、今、スポーツほど信じられているものがほかにあるだろうか。

 再びドゥルーズもいうように、大衆芸術としての映画の柱は、ずっと革命とカトリック信仰にあった。世界への信頼を取り戻すために、ひいては「スター」ばかりを撮ってきた映画に欠けていた「民衆」を取り戻すために、イーストウッドは、マンデラモーガン・フリーマン)でも、ラガーマンマット・デイモン)でもなく、スポーツによって立ちあがる民衆そのものを、「よき」ナショナリズムとして撮ろうとしたのではないか。その力は、作中何気なく言われるラグビーのルール、すなわち前にではなく、横へ横へとボールをつないでいく力そのものとして、まさに力強く表現されていよう(編集の形式も、場面場面が横へ横へと並列につながれていくという徹底ぶりだった)。

 言うまでもなく、だが、この横へ横への力は、歴史的にいつも「上=権力」に簒奪されてきた。スポーツの祭典オリンピックは、『民族の祭典』(リーフェンシュタール)と化し、それは先のバンクーバー・オリンピック後にも嫌というほど見せられた。メダル獲得数が低調に終ったロシアでは、すぐさま責任者が大統領から解雇を告げられ、日本では石原都知事が、銅メダルを獲得した男子フィギュアの高橋大輔の活躍に、「銅で大騒ぎしているのは、日本人だけだ」と冷水を浴びせた(だが、誰もがいうように、どうせ政治利用するなら、己の実績作りのための五輪招致より、個々の選手のために手厚い支給をした方が、よほど石原がよく言う「国(民)の誇り」を取り戻す近道なのではないか)。

 トヨタのリコールや、捕鯨クロマグロ問題、あるいは外国人参政権子供手当ての支給範囲をめぐる議論など、現在の「友愛」民主党政権下において急速に進行しつつあるのは、「日本(人)はバカにされているのではないか」という「素朴な」感情的反発であるととともに、国民の「誇り」が喪失「させられているのではないか」という疑問の広がりではないか。坂本龍馬やら戦国武将に向かう、敗戦を飛び越えての歴史ブームも、キャラクター文化といったレベルにとどまらず、喪失した「誇り」の代補であるのかもしれない。

 その「喪失」感は、作中のワンシーンで、マンデラをして「これが一試合の得点か」とつぶやかせる、対ニュージーランド戦で17対145という惨敗を喫した、あの日本チームの姿にも重なる。早晩、この国においても、「プチナショ」どころではない本格的なナショナリズム問題が再浮上してくるのかもしれない。おそらく、南アフリカにおいても、「よき」ナショナリズムを防衛するべく、真に「負けざる」魂が必要になるのは、サッカーW杯開催などに乗じてドカドカと資本が入ってくる今後においてであろう。

 われわれにとって、果たして「インビクタス」は、「希望」だろうか、それとも「試練」だろうか。

中島一夫