ハート・ロッカー(キャスリン・ビグロー)

 イラクに駐留する爆発処理班の米兵の葛藤。裏腹の関係にあるともいえるだろう、自爆テロに任命された若者の葛藤を描いた『パレスチナ・ナウ』を思い出しながら見ていた(前者はアカデミー賞受賞、一方後者はアカデミー賞候補となることに反対署名運動が起こったことも頭をよぎる)。

 テーマからすれば、「これは戦争ではなく、イラク市民の治安を守る警察行為だ」と主張する『帝国』(ネグリ/ハート)の論理を裏書きするような作品だ。実際、今回のアカデミー賞が、軍隊を描いて、自然(原住民)を侵略する惑星帝国主義者にしてしまう『アバター』ではなく、戦地に赴く兵隊たちは、こんなにも地道で危険な任務を行っているのだという『ハート・ロッカー』を選んだのも、今や「オバマの戦争」と言われるアフガンの泥沼化を含め、まさにアメリカ視点によるものだという見方が出来ないわけではない。

 だが、映画が始まると、そうした観点は、まさに爆弾のように吹っ飛んでしまう。『地獄の黙示録』、『プラトーン』、『フルメタルジャケット』、『硫黄島からの手紙』……。従来のアメリカ戦争映画のどれとも似ていない、おそらく(戦争の形態の変容も相俟って)「戦争映画」の枠組の更新を迫る作品となるだろう。

 死亡した前任者に代わって、新しく爆発処理班に派遣されてきたウィリアム・ジェームズ軍曹(何ともプラグマティズム的な名前だ)は、かつて800以上もの爆発物を処理してきた腕利きである。爆弾が大規模で、扱いが困難であればあるほど、「すげえ(ジーザス)」と唸り、憑かれたように処理に没頭する。彼には偵察用ロボットなどまったくの不要、ある時など「どうせ死ぬなら派手に死にたい」と言って、仲間が差し出す防弾服も脱ぎ捨てたうえに無線も切ってしまう始末で、当然部隊の統率を乱しては仲間とも対立の日々である。

 家々の窓や建物の影から無数のイラク人が見つめるなか、一台の車が止まっている。どうやら、爆弾が仕掛けられているらしい。案の定、トランクの中に見たこともないような大量の爆弾を発見し「すげえ」、ジェームズのスイッチが入る。

 ジェームズの周囲を擁護する部隊。爆弾処理の実践を見つめる人間の中に、携帯電話で遠隔操作をはかろうとする実行犯はいないか、ひそかに合図を送りあっている者はいないか、銃を構えては、四方八方に気を配る兵士たちの顔面に冷や汗が流れ、彼らの荒い呼吸だけが聞こえてくる。

 「ジェームズ、早くしろ!」。だが、サンボーン軍曹からの無線を無視し、彼は時間が過ぎても、爆発処理が完了するまで一向に車から離れようとしない。あそこでビデオを構えている男は、単なる興味本位か、それともこちらを観察しているのか。いったい誰が市民で誰がパルチザンなのか。危険だから後ろに下がるよう叫んでも英語が通じない異世界。疑心暗鬼による緊張は最高潮に達する。

 時には銃撃戦に巻き込まれることもある。砂漠のはるか遠くのトーチカに潜む、イスラム武装兵との銃撃戦の長回しのシーン。長時間にわたる神経戦、彼らの精神的疲労やのどの乾きが限界に達するのが画面からもはっきりと伝わってくる。手持ちカメラを駆使した見事な臨場感だ。『アバター』が、まずもって視覚に訴える映画だとしたら、この『ハートロッカー』は、視覚よりもむしろそれ以外の五感に訴える映像になっている。

 それにしても、あれだけ統率を乱してきたジェームズの変貌ぶりはどうだろう。最も対立してきたサンボーンの弾が切れると、死んだ仲間の血のついた弾を拭ってまで弾倉を込めてやり、また銃口を照準から外せないと見るやジュースを口に含ませてやる。精神的に挫けそうな後方には言葉で鼓舞する。

 だが、このとき、気づくのだ。彼は、仲間との輪を大切にするよう変貌したのではない(ましてや、サンボーンに殴られて反省したのではない)。ジェームズという男は、敵との戦闘においてはこうして普通に仲間と協力できるにもかかわらず、こと爆弾処理となると「麻薬」のように興奮し、理性を麻痺させてしまうような、まさに、映画冒頭の「戦争は麻薬だ」というメッセージを体現する男なのである。

 彼の口癖である、爆弾に圧倒されイカれたときの「すげえ」と、とても相手が冗談にとれないような過激な振舞いをしたとき「冗談だよ」と素に返るセリフは、このイラクという「ハートロッカー」(兵隊の隠語で「棺桶=苦痛の極限地帯」の意)での長期滞在と、常に死と隣り合わせの激務の連続によって、何かを踏み越えてしまった、9・11以降における一人の米兵の姿を特徴的に表していよう。

 「大人になるにしたがって、だんだんと欲しいものが失なわれていく。もうお父さんには、一つだけになったよ」。束の間の日常に戻ったジェームズは、赤ん坊にそうつぶやき、再びあの戦場に帰っていく。

 戦場の惨状に傷つき、おびえ、「息子がほしい」とむせび泣くサンボーンは、まだ「人間」的だ。だが、「誠実」な妻とかわいい盛りの子供を持ちながら、そうした家族との生活よりも、爆弾のある戦場の方に関心と現実感を抱いてしまうジェームズは、「死の欲動」などという言葉を超えて、もはや「滅びようとのぞむ人間」(ニーチェ)に片足を突っ込んでいるように思える。だが、巨大スーパーでおびただしい種類のシリアルが整然と並ぶ姿に現実感がもてず、棚の前で呆然としてしまうのは、おそらく彼だけではないはずなのだ。

中島一夫