HOMESICK(廣原暁)

 ポン・ジュノジャ・ジャンクーが「革命的でクリエイティヴ、真に有望な映画監督」と評したという。

 千葉県の中心部からやや外れた地域、団地が立ち並ぶこのあたりも、不況で停滞し昔の活気を失っている。塗装会社に勤める30才の主人公は、突然社長が失踪し、そのまま失業、これからどうしたものか途方に暮れている。

 四人家族で住んでいた実家も、すでに両親とも家を出ていき、妹もノマドのごとく世界中を放浪、一家離散状態にある。四脚のイスが並ぶ居間のテーブルに、一人さびしく座る毎日だ。

 ある日、別の地でペンション経営を始めたという父から、「その家はもう不動産に売却したから、期限までに荷物をまとめて出るように」という留守電が入る。すぐさま家の門には、不動産屋の「管理物件」の看板がかけられ、家が差し押さえられてしまう。

 こうなると、都市郊外のマイホームも無用の長物となるほかはない。そう、もはやこの国は、「HOME」を持て余しているのではないか。

 主人公は、何も失業したから「退屈で自由」の身となって、「自分が何をしたいのか分からな」くなったわけではない。そもそも、「大人」になろうにも、従来の成長モデルが崩れつつある現在、「自分が何をしたいのか」、どちらの方向へ進めばいいのか、ずっとよく分からないままここまで来たのだ。

 停滞する主人公は、華やかなりし頃の一家団欒を思い出して「HOMESICK」にかかっているのではない。むしろ、ずっと疑わずにそれでやってきた、核家族の「HOME」こそが「SICK」だったかもしれないではないか。

 差し押さえられた家にスペアキーで入り込んだ主人公は、やがて近所の悪ガキ三人組と、家中を走り回りながら、水鉄砲や水爆弾で「戦争」をし、子供たちから「水魔神」なるあだ名をつけられる。その名のとおり、家中を平気で水浸しにする主人公は、父も社長も不在のなか、今まで人々を縛り付けてきたHOMEから、「水」漏れする逃走の線を引くのである。

 また、彼は、子供たちと一緒に、庭にダンボールで見事な恐竜のオブジェを作り上げ、従来のHOMEを読み替えてアートにしてしまうという、まさに「革命的で、クリエイティヴ」な存在なのだ。HOMEを守るべく、働きづめでろくに遊びの相手もしてくれない「父」と、夏休みの自由研究よろしく、時間を忘れて一緒に恐竜を作る彼の、どちらが子供たちの記憶に残るかは、考えるまでもないだろう。

 そんな彼は、彼の家を差し押さえることとなった、幼馴染の不動産屋の女性から見れば、いつまでも大人になろうとしない「人間のクズ」でしかない。不動産屋=HOMEの観点から見れば、彼は永遠の夏休みというモラトリアムと戯れているようにしか見えない。

 彼女は、庭にそびえたつ「恐竜」を蹴飛ばす。彼女が苛立っているのは、「不法侵入」の挙句、立ち退きを拒んでいる彼の姿勢ではない。同級生でありながら、まったく違う生き方を見せつけるような彼のスタンスそのものなのだ。

 この作品は、彼の「革命的でクリエイティヴ」な生き方を、バラ色に描いたりはしない。それは、彼が立ち去るときに見る打ち上げ花火のようなものだったかもしれない。

 だが、家が取り壊され、ブルドーザーが脇にとまっている空き地で、サッカーに興じている子供たちの記憶に、それは残っていくかもしれない。その「審判=主人」のいないサッカーは、規則のない錯綜としたリゾーム状のボールのやり取りそのものであり、そこには「水魔神」とともに、部屋の壁にくぎられたHOMEを水鉄砲でなし崩しにしていった、あの「夏休み」にも似た、引き延ばされた時間があるのだ。

 やがて子供たちは、革命的でクリエイティヴに、新しい遊びを思い付くだろう。

中島一夫