女は二度決断する(ファティ・アキン)

 一行目からネタバレがある。

 ラストの自爆をどう考えるかだろう。
 これを、夫と子供をテロで失った主人公「カティヤ」(ダイアン・クルーガー)による復讐と捉えれば、裁判で証拠不十分のため「無罪」となったネオナチの実行犯二人を、自らの手で裁こうとする私刑ものであり、ビジランテ(自警団)ものということになろう。主人公が体に入れている「サムライ」のタトゥーは、近代国家とその法に失望した主人公が、「家族」に封建的な忠義心を示していく証であり、忠義の深まりによって、途中未完成だったタトゥーも、その後徐々に完成していくことになる。

 夫は、トルコ系移民(両親はクルド人)で、かつて麻薬の売人をやっていて刑務所にもいた。ハンブルグの移民街にある自らの店でテロにあったので、当初警察は、移民間の麻薬がらみの抗争の線で捜査を展開、カティヤに対しても、夫の出身や犯罪歴、政治的主張や麻薬組織とのつながりを問い質す。まるで殺された夫が加害者であるかのように。

 この移民差別が本作のテーマのひとつであろう。作品は、夫とカティヤが獄中結婚する印象的なシーンから始まるが、これは「白人」のカティヤも、移民の犯罪者とひとたび結婚すれば、その後ドイツ国民としてではなく、獄中にいる「移民=犯罪者」のごとく彼らと同列に扱われるようになることを示唆していよう。警察や司法からすれば、彼女は移民の犯罪者やその組織と「つながっている」存在なのだ。

 だが、単なる復讐であるならば、何も「自爆テロ」のような手段である必要はなかっただろう。実際、一度目の「決断」の際、彼女は実行犯と同じ手口で彼らだけを爆破しようとする。そして、夫の友人の弁護士から控訴の薦めの電話を受け、カティヤがテロを思いとどまったかのように映るのだが、彼女のありようや作品の展開がそれを許さない。

 彼女がメカやITに強い技術者であることを忘れてはならない。このご都合主義的ともとれる設定は、ネットを駆使して実行犯がギリシャに潜伏していることを難なく突き止め、かつて息子のラジコンカーをあっという間に修理した技術で、これまたネットを見ながら実行犯と同じ釘爆弾を手早く製作してしまうという作品の展開に不可欠である。彼女は、アンティゴネーのような、法の外の「共同体のイロニー」(ヘーゲル)としてあるのだ。

 では、なぜ「自爆」だったのか。おそらくカティヤは、最終章「海」で何度となく夫に導かれるように、「海=イスラーム、死」の方へと向かっていく「決断」を、「二度」目の「決断」として行ったということなのだろう。カティヤにとって、それはすべてにおいて夫のところへ赴くという決断だった。

 ネオナチが移民を排斥し、ドイツ国家(法、警察)がそれを見過ごすのなら、移民の夫と結婚した自分は何もかも夫の側につこう――。冒頭の獄中結婚は、夫婦からすれば、二人を「獄中の者」と見なそうとする力に抗い、その「外」で、民族も人種も関係ない個と個の「契り」を交わしたということにほかならない。これは、移民を獄中にぶちこもうとする力に対する二人の戦争なのだ。ラストは、その非対称的な戦争としての「自爆テロ」ではなかったか。

 それは、自爆テロの肯定のようにも見える。だが、ずっとネオナチに対して「自らも標的にもなり得る」と思ってきたトルコ系ドイツ人のファティ・アキンが、極右グループNSU(国家社会主義地下活動)による度重なる移民へのテロ(2000年からの7年間に9人の外国人を殺害)を題材にした本作を、「ネオナチに対する自分なりのカウンター」と言い切る言葉は、やはり重い。容易に肯定されないラストであることは、重々承知のうえの「決断」だったことだけは確かだ。

中島一夫