タイム・スリップの断崖で(すが秀実)

 本書の書評が、「週刊読書人」2月10日号に掲載されています(以下のwebでも読むことができます)。

http://dokushojin.com/article.html?i=843

 本書は、ざっと挙げても、イラク反戦運動(2004年)、反日デモ・暴動(2005年)、フランス暴動(2005年)、年越し派遣村(2008〜9年)、反原発運動(2011年)、Occupy Wall Street(2011年)、ヘイトスピーチ(2014年)、SEALDs(2015年)など、2000年以降の運動論としても読まれ得るものだが、私の能力には余るので、書評では触れられなかった。それについては、『子午線』誌上で最近の運動の言説を読み解く批評を展開している、長濱一眞による、圧倒的に詳細かつ精緻な本書脚注の参照を求めたい。

 また、とても90年代の新宿とは思えない、もっとずっと昔の光景ではないかと見まがうような、迫川尚子による本書表紙の写真(写真集『日計り』参照)は、本書が「表層」においては見失われている記憶への問い=タイムスリップであることを換喩的に示していよう。

 これまた書評では書けなかったが、本書を読みながら最も想起したのは、ベンヤミン「歴史の概念について」(1940年)であった。知られるように、ベンヤミンは、クレーの絵画「新しい天使」を「歴史の天使」と呼んだ。

彼はその顔を過去に向けている。われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局(カタストロフィー)を見る。

 天使は、強い嵐のために、「もはや翼を閉じることができない」。「嵐」とは、「われわれが進歩と呼んでいるもの」だ。

 本書のみならず著者の批評全体に言えることだが、そこにある視線は、この「歴史の天使」のそれではないだろうか。「彼」はその顔を「68年」という「過去」に向けており、「われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局(カタストロフィー)」を、すなわち「断崖」を見ているのだ。本書の『タイム・スリップの断崖で』というタイトルから、進歩の嵐に抗って68年の「断崖」にたたずむ著者の姿を思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。

 本書の「断崖」は、著者の過去作である『1968年』(2006年)の末尾に表れていた「千尋の谷」と別のものではないだろう。すでに断崖(千尋の谷)=破局は68年に現れていたにもかかわらず、われわれは、あたかもその後も「均質で空虚な未来」(ベンヤミン)が続くという進歩史観に流されて、「決断」を引き延ばしては今日まで延命をはかってきたのだ。アメリカ新大統領による現在の「混乱」は、あくまでその一つの帰結にすぎない(ウォーラーステインのいう「アフターリベラリズム」や「ポストアメリカ」の問題だろう)。

 本当は、68年後の「歴史」とは、「断崖」への不断の「タイムスリップ」だということ。それは、歴史の連続性を打ち壊し、それとは異質の「いまこのとき」を見つめようとした歴史的唯物論者=歴史の天使、ベンヤミンの視線そのものだろう。

 それを経験していない者が、68年に学ぶべきは、出来事や事象そのものよりも、まずもってこの「視線」ではないか。例えば、先日の記事で触れた68年の新木正人なども、ベンヤミンのように、「時間のうちの一秒一秒」を、「メシア」ならぬ「少女」が「そこを通ってやってくるかもしれない小さな門」として見ていたに違いない。「天使の誘惑」に立ち向かう「新しい天使=歴史」?

 そう見てくれば、本書が、出来事の連鎖が綴られたいわゆる「時評」という枠を、歴史の連続性もろとも、打ち壊そうとした一冊であることがわかるだろう。「決断の書」などと書いてしまったのはそのためだ。言うまでもなく、その「決断」も、書評で述べた「ディレンマ」の中にある。

中島一夫