ゼロ・ダーク・サーティ(キャスリン・ビグロー)

 今回のアカデミー賞作品賞は、『アルゴ』(ベン・アフレック)が獲得した。

 先日の『アルゴ』の記事にも書いたが、この作品には、現在のイスラム原理主義の猛威につながる、イラン・イスラム革命を何とか否認したい、そのためには歴史の偽造も辞さないし、CIAの美化も隠さないという、現在のアメリカを覆う欲望が全開だった。しかも今回の受賞は、ミシェル・オバマ大統領夫人による受賞発表の演出というオマケ付きだった。

 そもそも、CIAと国防省のオファーだったとも伝えられるこの作品の受賞には、なりふり構わない政治と映画=ハリウッドの癒着ぶりがあまりにあからさまで、逆にアメリカの苦しさが感じられた。

 同様に、オバマ再選を目論む陣営とCIA上層部の全面協力によるともささやかれる、この『ゼロ・ダーク・サーティ』は、『アルゴ』に比べるとあまりにリアリズムで、良くも悪しくもうまく欲望が喚起されず、決して同化できない作品になっている。そこに、前作『ハート・ロッカー』同様、対テロ戦争のリアリズムを追求しようとするこの監督の「抵抗」を見るべきかもしれない。

 オープニング。真っ暗な画面に、どうやら9・11で、ツインタワーの炎の中に置き去りにされた、犠牲者の絶望的な声が聞こえてくる。これまた『アルゴ』の冒頭における、イランの歴史のおさらいシーン同様、この作品もフィクションでありつつ冒頭から「真実」を装おうとする。

 逆に言うと、この作品に唯一、実際の民間人が(声のみ)登場するこのシーンが、この後展開される作品全体――事実かどうかもよく分からない、2011年5月の米軍シールズ部隊によるオサマ・ビン・ラディン殺害を、真実の「歴史」として構築する作業――の「真実」の担保になっているのだ(この声の無断使用は、遺族からクレームがついた)。

 以下、CIAイスラマバード支局員として派遣された「マヤ」(ジェシカ・チャステイン)は、当初は、捕虜への拷問にとまどいながら、またなかなか有力な手がかりもつかめず、女性の同僚をテロで失いながらも、粘り強い捜査を積み重ね、徐々にビン・ラディンの居所を突き止めていく。

 徒らにマヤをヒロイン化しようとせず、彼女の地道な捜査が一進一退するさまを、映画はできるだけ散文的に描こうとする。クライマックスの、シールズ部隊によるビン・ラディン襲撃シーンに、マヤがほとんど出てこないというのも、この作品が彼女のヒロイン化を目指していないことを示していよう。

 一番の「見せ場」となるのは、ラスト30分、ビン・ラディン邸への作戦遂行である。ステルス製ブラックホークの2機のうち1機が着陸に失敗して家畜小屋に墜落し、部隊は女性もろとも殺害し、子供が泣き叫び、近所のパキスタン人らが騒ぎを聞きつけて押し寄せてくる。

 この緊張感あふれる襲撃のディテールを、事細かに描写していくことで、作戦が決してすんなりとは進まなかったこと、そしてその時に流れていただろう、何ともいえず引き延ばされた時間を、観客はまるでリアルタイムのように体感することになるのだ。

 だが、殺害され死体袋に詰められた男が、確かにビン・ラディンであるという確証が、マヤ=CIAによる顔の確認ひとつでなされるのを目にした瞬間、この作品のフィクション性が、緊張を湛えた画面に一気になだれ込んでくる。それは、奇妙にも、安堵感に似た感触だ。

 果たして、これらがすべて、例えば元国務省官僚のピーチェニックが断言するような、CIAのプロパガンダであり洗脳なのか、はたまたそれも陰謀史観に過ぎるのか。

 作中、イラク戦の際、結局大量破壊兵器が見つからなかったという失態がたびたび振り返られる。ただそれも、あまりに何度も出て来るので、今度こそは、今度のビン・ラディン殺害は確かなのだというエクスキューズに聞こえてならない。

 だが、映画中盤、マヤの助っ人として、あのエドガー・ラミレスが登場したとき、その圧倒的な存在感にわくわくするとともに、近作でチェ・ゲバラやカルロスといった革命戦士を演じてきたこの俳優に、今回CIAの実働部隊隊長を演じさせた「アメリカ=ハリウッド」の狡猾さに、何とも言えない凄みを感じた。

 いまや革命戦士はスパイ化せざるを得ず、しかもそれはいったいどちら側のスパイなのか、もはやよく分からないし区別もつかない時代に突入しているのだ。むろん、それは、冒頭に述べた、政治と映画(プロパガンダ)の一体化が、もはや隠されなくなったことと別のことではない。

中島一夫