ディス/コネクト(ヘンリー=アレックス・ルビン)

 冒頭、少年がアパートメントの各部屋を縫うように、宅配の段ボール箱を運び送り届けている。運び終わって自分の部屋に戻り、ノートPCを開ける。ネットを開けることで、分かたれたアパートの各部屋もつながってくるかのような感覚を覚える。作品のテーマをそれとなく告げる、示唆的なオープニングだ。

 ネットもの、SNSもの、と言っても、ありがちなやたらと肥大化した妄想が展開されるわけではない。むしろ、いかにネットが日常に入り込んでおり、われわれの人間関係のコネクト(接続)/ディスコネクト(切断)そのものを構成しているかを、入念なリサーチのもとにリアルに見せていく(大勢のリサーチャーを使い、ニュージャージーコネティカットの事件を調べ尽くしたようだ)。

 ネットのバーチャルな空間と、その外のリアルな人間関係という二分法的な捉え方ならありふれている。今やネット空間は、資本主義がそうであったように、ウィルスのごとく人間関係を乗っ取り、再構成してしまった。この作品が浮かび上がらせるのは、そうした事態そのものである。

 だから、この作品は、一見そう見えるように、ネットやSNSにまつわる三つのばらばらなエピソードが、蝶番となる人物を介して互いに絡まりあっていくというだけでない。この作品においては、こうした構成自体が、作品のテーマを映し出している。テーマが構成を規定しているのだ。

 すなわち、ネットでは思わぬところで思わぬ形で思わぬ人物とつながっており、そのことが生活や人生に、否応なく浸食してくるということ。エピソード間をコネクトする人物が、元警察のネットセキュリティ担当だったり、CIAともつながっているテレビ局の顧問弁護士であることが、それを明かしていよう。いわば、彼らは、各エピソードにとってウィルス的な存在なのだ。

 ウィルスが侵入してしまったPCは、遠隔操作される。実際、各エピソードでは、遠隔操作でカードのIDが盗まれてしまったり、同じ学校の生徒を遠隔操作するように自殺未遂に追い込んだり、TVの報道番組の女性レポーターが、冒頭で触れた少年と遠隔操作するようにやりとりして、ポルノサイトの内実や現場アパートの住所を割り出したりというように、遠隔操作がストーリーのキーになっている。

 だが、ここでも重要なのは、エピソードをコネクトするウィルス的存在の方だろう。あるエピソードにおいて、自殺に追い込まれた息子の父であるTV局の顧問弁護士は、別のエピソードでは、女性レポーターを弁護しきれずにCIAに協力するよう促し、その結果彼女を窮地に追い込むことになる。

 そして、あるエピソードでは、カードのIDを盗まれた夫婦の依頼を受けて、犯人をつきとめようとするも危うく別の人間を差し出しそうになる元警察のネットセキュリティ担当は、また別のエピソードでは、自分の息子に技術を盗まれ、その結果先の自殺騒ぎを招いてしまうのだ。

 すなわち、顧問弁護士と元警察は、あるエピソードでの二人の失策が、別のエピソードにまで波及し、まるでその失策の責任を取らされるかのように、それぞれ自殺未遂の加害者、被害者の保護者に立場に立たされていくのである。

 ラストで、ついに彼らは対決するのだが、その顛末には触れずにおこう。だが、その結末が、残りの二つのエピソードにもこれまた「遠隔」的に波及していることは、作品のテーマや構造上、疑いないということだけは断言しておく。

 そして、その結末こそが、各エピソードで何一つ「問題」が解決していないように見えるなかで、「いや、われわれは、そもそも問題を取り違えているのではないか」とばかりに、この作品が投げかける問いであり、かつ作品が示す解決なのだ。それが、このネット時代に示される露悪的なものではなく、また逆に、便利な処方箋のようなものでもないところに、この作品の誠実さがある。

中島一夫