ジャンゴ 繋がれざる者(クェンティン・タランティーノ)

 前作『イングロリアス・バスターズ』の冒頭から露わになっていた、タランティーノマカロニ・ウェスタンへのオマージュは、本作で全開となった。

 『続・荒野の用心棒』や『黒いジャガー』との関連は、至る所で触れられているので措く。まずもって、CGを使用しないアナログにこだわった画面が素晴らしい。予告編からして、一目でタランティーノの画面と分かる、ひときわ目を引く画面だ。

 冒頭、乾いた風に吹かれ、ごつごつと剥き出しになった岩が画面を覆い尽くすなか、背中に激しいムチ打ちの痕を刻まれ、足枷を嵌められた黒人奴隷の群れが率いられていく。茶褐色の岩肌に、血のにじむ褐色の肌が重なり、さらにそこにまた、マカロニ・ウェスタン特有の赤文字のタイトルロールが重なっていく。この後、血で血を洗うバイオレンス活劇が繰り広げられていくだろう、その前夜の不気味な静けさ。ぞくぞくするオープニングだ。

 黒人奴隷だった「ジャンゴ」(ジェイミー・フォックス)は、お尋ね者を捕えて賞金稼ぎに明け暮れていた、元歯科医のDrシュルツ(クリストフ・ヴァルツ)に見出され、奴隷の身から解放される。シュルツが、数多の奴隷の中からジャンゴを買い取ろうとしたのは、自分が追っている三人組の顔をジャンゴが知っていたからだ。奴隷解放といっても、そこはタランティーノ、それは高邁な精神ではなく、あくまで賞金稼ぎによるものなのだ。

 ジャンゴの買い取りは、相手が承諾しなかったためにうまくいかない。結局、シュルツは相手を撃ち殺してしまう。その上で、「契約=法」を重んじるドイツ人のシュルツは、売買=契約は確かに成立したぞとばかりに、証文を残してジャンゴを馬に乗せ立ち去っていくのだ。

 売買=契約とそれを普遍化する法の根源にある暴力と収奪。ましてや、今売り買いされているのは黒人奴隷であり、元々彼らは、オランダ、スペイン、イギリスなどヨーロッパ諸国によって、アフリカからアメリカに「輸入」されてきた商品なのだ。

 今作の時間は、南北戦争開始の二年前(1858年)に設定されている。南北戦争は、奴隷制度廃止を「民意」とし、資本主義経済の自由労働者を中心とする北部と、奴隷労働を前提とした前近代的な農業を中心とする南部との戦争だった。そして北部が勝利した結果、北部の論理がそのまま全土に普遍化していった。

 1863年奴隷解放宣言を発表する、初代大統領リンカーンが、実は奴隷制を容認する黒人差別主義者だったことは有名であろう。だが、自らが基盤とする共和党の主流が奴隷制廃止論者で占められており、また南北戦争に勝利するために、南部の黒人を味方につける必要があったのだ。

 すなわち、アメリカの歴史とは、南の奴隷を北の自由労働者に塗り替えていく過程である。それによって、労働者は、自らの労働力をさも自由に売買できる存在であるかのようになっていく。もちろん、そんなものは幻想である。タランティーノが、南北戦争前夜に作品の舞台を設定したことは、資本主義的な「売買=契約」と、それを普遍化しようとする「法」が、いかに血なまぐさい暴力や収奪を、その背後に(あるいは内部に)隠蔽してきたかを暴露するのだ。

 ジャンゴを買い取るときに、引き金を引き、かつ証文を残すシュルツは、それを体現する存在だ。そして、これが伏線であったことは、南部のプランテーションの農場主ムッシュ・キャンディ(レオナルド・ディカプリオ)からジャンゴの妻を買い取るというメインの売買のときにも、シュルツの行為が反復されることからも明らかだろう。

 キャンディとシュルツ+ジャンゴとの間に繰り広げられる、一触即発のヒリヒリしたやり取りの積み重ねは、来るべき大爆発への導火線だ。そして、「南部の契約は、最後に握手しないと成立しないぞ」と最後の最後まで上から挑発してくるキャンディに、せっかく法外の値段でジャンゴの妻を買い取ったはずのシュルツが、とうとう我慢しきれなくなり、引いてはならぬ引き金を引いてしまうのだ。

 だが、その後の壮絶な撃ちあいのカタルシスをもって、この作品は終わらない。命からがら生き残ったジャンゴは、その後どこへでも逃げることのできる自由を手に入れながらも、わざわざ地獄へと舞い戻る。結局買い取りきれなかった妻が、キャンディ農場の残党にいまだ捕えられているのだ。

 では、ジャンゴを舞い戻らせるものは何か。もちろん、キャンディもシュルツもすでに死んでいる。ということは、もはや売買=契約では妻は戻ってこない。

 タランティーノは、それを「仁義」だと言う。そして、それを深作欣二から教えてもらったと。英語には訳語のない「仁義」の意味を聞いたとき、深作は次のように答えたという。「仁義とは、やらなきゃならないことだ。たとえもしこの世で一番したくないと思っていることだとしてもな」。

 妻を買い戻そうと、最初にキャンディの元を訪れた段階では、まだジャンゴは「売買=契約=法」というシュルツの論理に従っていた(知恵ある白人を味方につけ、黒人がヒーローになっていく展開は、旧作『ジャッキーブラウン』を想起させる)。だが、二度目に妻を取り返しに戻ってきたジャンゴを突き動かすのは、もはやアメリカの論理ではなく、何と日本やくざの「仁義」なのだ。

 ここに、ジャンゴが地獄に舞い戻る必然性がある。このとき、ジャンゴは文字通りヒーローとなるのだ。もはや金のためではなく、「仁義」に突き動かされ、ダイナマイトを手にしたまま馬で舞い戻っていくジャンゴの後ろ姿に、黒人奴隷の一人が浮かべる涙。「いったい、あいつは誰だ…」。

 ここには、アメリカの原罪=奴隷制を乗り越える?ための、映画オタクらしい、極めてタランティーノ流の痛快なビジョンが提示されているといえないか。

中島一夫