希望の原理(ブロッホ)

希望の原理 第一巻 (白水iクラシックス)

希望の原理 第一巻 (白水iクラシックス)


上記の書評「3・11後に読み直すブロッホ」が、今週号の「週刊読書人」に掲載されています。

 
 書評では触れられなかった点を少し。

 3・11後、反原発のカリスマ的科学者として再発見された高木仁三郎は、都立大闘争の後、大学の職を辞し、本格的に「市民科学者」として活動していく。そのきっかけの一つとなったのが、ドイツ留学中に読んだ、本書を始めとするフランクフルターの書物だったという(『市民科学者として生きる』岩波新書)。

 だが、今回、年末年始を通して改めてきちんとブロッホを読んでみて、それは甚だ疑わしいと感じた(もっとも、一番影響を受けたのは、ブロッホではなくハーバーマスだったと言っているが)。

 ブロッホの技術論は、原子力産業=原子破壊技術を、いかに人間という「主体」の「意志」によってわがものとするかというテーマに尽きている(第四部「意志の技術」)。その思想的課題が、ブロッホを、インドの魔術、ヨガ、自己催眠といった「アジアの意志の技術」に向かわせることとなった。

 主体の意志と身体の変革。言うまでもなく、これはすでにオカルトであり、ニューエイジである。確かにそれは、高木仁三郎の「市民=自前」の科学なるものが、やがてニューエイジ的な宮澤賢治へと帰結するのと似ているように見える。

 だが、書評で述べたように、ブロッホは明確に「原発肯定」なのだ。いや、『希望の原理』の「希望」とは、まずもって「原発」のことだと言っても過言ではない。ここから、高木の「反原発」は、どうひっくり返っても出てこないはずなのだ。

 おそらく、3・11後において注目すべきは、ブロッホと高木の親近性ではなく、むしろ両者のその決定的な差異である。両者の間には、革命戦略における、拭いがたい歴史的な差異(ソ連・平和共存/中国・毛沢東主義)が横たわっているからだ。

 ブロッホの「希望」は、その歴史的な差異を押し流し見えなくさせる。「希望」は、確固とした事実に基づくものではなく、本質的に〈まだ・ない〉という前方に開かれた未来の領域に属している以上、それは「裏切られることもある」からだ。そこでは、たとえ革命戦略の誤りがあったとして、それは「裏切られ」た「希望」と見なされたうえで受容されていくだろう。こうして、誤りの分析や、その歴史の検討は、オミットされていくほかはない。

 左翼の革命戦略において、なぜ原発は、無防備に軽視されてきたのか。
 今ブロッホを読み返すことで、それが見えてくる。

中島一夫