- 作者: エルンストブロッホ,山下肇,瀬戸鞏吉,片岡啓治,沼崎雅行,石丸昭二,保坂一夫
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2012/11/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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上記の書評「3・11後に読み直すブロッホ」が、今週号の「週刊読書人」に掲載されています。
書評では触れられなかった点を少し。
3・11後、反原発のカリスマ的科学者として再発見された高木仁三郎は、都立大闘争の後、大学の職を辞し、本格的に「市民科学者」として活動していく。そのきっかけの一つとなったのが、ドイツ留学中に読んだ、本書を始めとするフランクフルターの書物だったという(『市民科学者として生きる』岩波新書)。
だが、今回、年末年始を通して改めてきちんとブロッホを読んでみて、それは甚だ疑わしいと感じた(もっとも、一番影響を受けたのは、ブロッホではなくハーバーマスだったと言っているが)。
ブロッホの技術論は、原子力産業=原子破壊技術を、いかに人間という「主体」の「意志」によってわがものとするかというテーマに尽きている(第四部「意志の技術」)。その思想的課題が、ブロッホを、インドの魔術、ヨガ、自己催眠といった「アジアの意志の技術」に向かわせることとなった。
主体の意志と身体の変革。言うまでもなく、これはすでにオカルトであり、ニューエイジである。確かにそれは、高木仁三郎の「市民=自前」の科学なるものが、やがてニューエイジ的な宮澤賢治へと帰結するのと似ているように見える。
だが、書評で述べたように、ブロッホは明確に「原発肯定」なのだ。いや、『希望の原理』の「希望」とは、まずもって「原発」のことだと言っても過言ではない。ここから、高木の「反原発」は、どうひっくり返っても出てこないはずなのだ。
おそらく、3・11後において注目すべきは、ブロッホと高木の親近性ではなく、むしろ両者のその決定的な差異である。両者の間には、革命戦略における、拭いがたい歴史的な差異(ソ連・平和共存/中国・毛沢東主義)が横たわっているからだ。
ブロッホの「希望」は、その歴史的な差異を押し流し見えなくさせる。「希望」は、確固とした事実に基づくものではなく、本質的に〈まだ・ない〉という前方に開かれた未来の領域に属している以上、それは「裏切られることもある」からだ。そこでは、たとえ革命戦略の誤りがあったとして、それは「裏切られ」た「希望」と見なされたうえで受容されていくだろう。こうして、誤りの分析や、その歴史の検討は、オミットされていくほかはない。
左翼の革命戦略において、なぜ原発は、無防備に軽視されてきたのか。
今ブロッホを読み返すことで、それが見えてくる。
(中島一夫)