イエローキッド(真利子哲也)

 評判通りのエネルギッシュなフィルムである。

 黒沢清に師事する28歳の若き監督による、東京藝大大学院の卒業制作。制作費200万円、10日間で撮りあげたという。「シネマ・シンジケート」(全国独立系映画館主のネットワーク)が、最も将来性を期待される新人作品「New Director/New Cinema 2010」に選出している。

 映画は、百年前のアメリカン・コミック『イエローキッド』が、画面いっぱいに映し出されるところから幕を開ける(『イエローキッド』は、リチャード・フェルトン・アウトコールなる漫画家によって、実際に新聞連載されていた作品で、主人公の「イエローキッド」は、爆発的な人気を博したキャラクターだったという)。新鋭漫画家の「服部」は、この作品の二次創作「イエローキッド」を発表、その続編の取材に、とあるボクシングジムを訪れている。そして、自分の作品を読んで「人生を変えられた」というボクサー志望の若者「田村」に出会う。すぐに意気投合する二人。服部は、続編の主役である新しい「イエローキッド」のモデルを、この田村に決定する。

 田村は、認知症の祖母とぼろアパートに二人暮らし、壁は穴だらけ、電線もほつれてショート寸前という底辺生活だ。バイトを遅刻してクビになった彼は、今やボクサーの先輩と一緒に、当たり屋で日銭を稼いでいる毎日である。

 一方、服部は、かつての恋人を、前作「イエローキッド」のモデルだったボクサーの「三国」に、愛の巣であったアパートの部屋もろとも奪われてしまっている(彼女は、すでに子供も宿しているようだ)。心変りの理由を彼女に尋ねると、返ってきた答えは「私、あなたの漫画が好きじゃないの」。

 そんなくすぶった二人の日常が、服部が新作で、三国に対する嫉妬と怨念から、彼を「イエローキッド=田村」に敵対する「ブラッディ・サン」なるキャラに仕立て上げていくにつれて激変していく。現実が、漫画のストーリー通りになっていくのだ。

 めまぐるしく入れ替わる漫画のカットと実写画面。このあたりから、いったいどこからが現実で、どこからが虚構なのか、見ている観客にもだんだん判別できなくなっていく。虚構通りの現実は、果たしてオリジナルなのかコピーなのか。そもそも服部の漫画自体が、百年前のアメコミをオリジナルとした二次創作であり、ここでは、オリジナル/コピー、現実/虚構、リアリズム/漫画、アメリカ/日本(イエローキッド?)といった両者を分かつ境界線が、根底から疑われているのだ。「他人のイメージでだって生きられるんだよ!」という服部の叫びは、作品の意図を端的に語っていよう。

 先輩ボクサーに祖母の年金を奪われ、自暴自棄になった田村が、パーカーを深々とかぶって街の商店街を練り歩く長回しのシーンの迫力。買い物客のバッグを引っ手繰り、財布から金を抜き取って、盗られた分を埋め合わせる。だが、田村の心の穴は一向に埋まらず、彼を取り巻く「世界」の殻も、拳がつぶれるまで殴りつけたトタンのようにびくともしないほど、厚く固い。

 そうした現実の世界における強固な権力関係を、服部は、漫画の想像力で転覆させようと目論んだのだ。そして、展開は実際そのとおりに。だが、ここで、にわかに服部は不安を覚える。このまま漫画通りにことが進んでしまえば、最後に田村が三国を撲殺してしまう――。服部は車を飛ばして現場に急ぐが、時すでに遅し?

 問題は、ラストのどんでん返しをどう捉えるかだろう。服部が仕掛けた隠しカメラの映像によって、一切が「虚構」だったことが暴露されてしまうのだ。これを、「虚構=妄想」に対する客観的な映像による自己批評と捉えるべきか、はたまた、下克上の不可能性に甘んじた現実への敗北(そしてビデオカメラの超越性)と受け取るべきか。

 いずれにせよ、このラストには、この監督の過去作品の残響がある。女性の部屋に隠しカメラが設置される『マスチフ』(2006年)、「革命ごっこ」に興じていた全共闘世代の男の人生が、大人になって「家族ごっこ」を虚構的に演じることに帰結していく(あるいは逆に、虚構的な日常を切り裂く暴力が、転向以前の虚構をフラッシュバックする)『ニコラの橋』(2007年)。これらと合わせ見ることで、この監督が、「現実と虚構」の境界に、いったい映像はどのように関わるのかというテーマを、一貫して追い求めていることがよく分かるだろう。

 出ている役者の存在感がいい。映画が、いかに役者の身体に左右されるか、改めて感じた。

中島一夫