カメラを止めるな!(上田慎一郎)

(本稿はネタバレを含みます)

 ゾンビが泥酔してゲロを吐いたり、腹を下して外で下痢便したりする。そのたびに、映画館は大爆笑だ。

 この夏の「事件」と言ってもいい大ヒット作『カメラを止めるな!』は、リアリティとは何かを追求した作品だ、とひとまずは言えよう(*)。本作はよく言われるように、前半の虚構パートが、後半の現実パートで伏線回収的に種明かしされていくところにポイントがあるのではない。あるいは、虚構を収めたカメラの枠外に現実がある、といった作品でもない。むしろ逆だろう。一見、虚構に見える前半にこそ現実がある、と作品は言っているのだ。

 ある対象にカメラが回っていれば、画面を見る者にはそれが現実そのものではなく、現実が再現された虚構だと感じられる。その意味で、あらゆる映像は虚構でありドキュメンタリーもフィクションだ。

 だが、近代(モダン)においては、いかに日々新しいもの(現在性)が、人々の目の前に現前している(現前性)かが、すなわち「リアリティ」が要請される。そこでは、(広い意味で)「リアリズム」が支配原理になるのはそのためだ。したがって、映画作品もまた、それが再現された虚構の映像であることを、観客にいかに忘れさせるかにかかってくるのである(「本物の表情をくれよ!」、「目薬じゃない本物の涙をくれよ!」)。

 この作品が、ゾンビもののTVドラマを、一台のカメラで全編ワンカット、しかも生中継番組としてそれが放映されるという、噴飯ものの無理無理な企画という設定のもとで繰り広げられるのは、作品のリアリティがその設定によって担保されるからだ。

 だから、その設定は、「作品の前に番組なんです!」という言葉で作中再三強調されるだろう。映画より「現在性=現前性」に富んだメディアであるTVにおいて、しかもワンカット、生番組、さらにはそういう設定だから生じるハプニングや台本無視のアドリブの連続という、これでもかと一回性が重なっていくことによってリアリティが累乗される。当たり前だが、リアリティとは、いかにリアルに見せるかという仕掛けによって虚構的に「作られる」ものなのだ。

 このとき、ゾンビものという設定にも必然性が生じるだろう。生きた人間のみの世界では、生と死のリアリティは感じられない。死者が蘇り死人として生きる、あるいは生きながらにして死んでいるゾンビの存在こそが、ウェットに言えば、普段見失っていた人間の生と死のリアリティを取り戻させる(主演女優も、ゾンビを見てしまってはじめてリアルな演技を取り戻していく)。虚構的な仕掛けが、かえってリアリティをもたらすように。だから撮影現場も、戦時中、死んだ人間を蘇らせる人体実験をしていたという曰く付きの場所でなければならないのだ。

 死んだような日常をゾンビのように生きている登場人物たち。周囲に気を遣ってばかりで妥協に妥協を重ね、撮りたいものも撮れない映像作家の父、かつて作品にのめりこみすぎて女優を追放された母、その両親と同じ「血」が流れている娘、その他俳優陣……。彼らは、カメラが回っている時だけ生きているのである。だから、カメラは止められないのだ。

 そこでは、ゾンビが生きた人間のように嘔吐し、脱糞し、自分では動かず他人に指示ばかりしていたTVディレクターがクレーンカメラのピラミッドに加わっては人間味を発揮し、単なる暇つぶしの趣味のための護身術も、本当に護身のために使われるだろう。

 「カメラを止めるな!」とは、人間はゾンビと違って一回しか生きられない、人生はワンカットだ、という叫びにほかならない。カメラが止まったら人間はゾンビに戻ってしまう。スクリーンを前に生き生きとした表情を見せていたわれわれも、一歩映画館を出れば、再びゾンビのように表情をこわばらせるのだろうか。


(*)これが、今持ち上がっている今作の「盗作問題」に関わってくるが、ここでは立ち入らない。だが、「原作」か「原案」かで対立している時点で、これが「盗作」問題ではないことは明らかだろう。双方とも、舞台作品がオリジナルであることは認めているのだから。

中島一夫