サード・パーソン(ポール・ハギス)

 タイトルとオープニングシーンで、目論見のすべてが見えてしまうので、ネタバレも何もあったものではないが、一点だけ。

 奥泉光は「三人称リアリズムは気味が悪い」と言った。そこでは、語り手が現前しないので、虚構のリアリティを担保するものが不在だからだ。それは、作り物ではなく現実の顔をしているぶん、端的に「嘘くさい」のだ、と。

 言うまでもなく、現実においては特定の語り手は存在しない。ということは、「逆に、我々は、目の前の誰かが物語りをはじめれば、それを必ず「虚構」として受け止める。つまり、かたり手の現前は、かたられたものの虚構性を告げ報せ、だからリアリズムに特有の「嘘くささ」は生じにくいわけである」(「三人称リアリズムについて」『述4』)。

 この作品では、まさにこの三人称(サードパーソン)における「嘘くささ」と「虚構」の兼ね合いが描かれている。パリ、ローマ、ニューヨークで、それぞれ一見何の接点もないようなストーリーが別々に展開され、やがてちょっとした出来事やアイテムによって徐々に相互の重なりを見せてくる(今回も、メモ一枚で話をつなげる手際は鮮やかだ)。『クラッシュ』以来、この監督のおなじみの手法である。だが、その三つのストーリーが、それぞれに「嘘くさい」のだ。

 とりわけ、「運命の女」との出会い、マフィアもどきの男の妨害、そしてハッピーエンド、というローマの話の嘘くささといったらない。だが、あの、嘘くささを醸し出す俳優エイドリアン・ブロディに、これまたいかがわしいアメリカ人ビジネスマンを演じさせているのだから、むしろその嘘くささこそが、ポール・ハギスの狙いだったのではないか。

 パリの話では、ピューリッツァー賞受賞作家(リーアム・ニーソン)が新作を執筆中だ。不倫相手の女弟子(花袋『蒲団』?)がその内容を尋ねると、「小説の登場人物を通してしか自分を感じられない作家の話だ」と答える。ここで、小説の登場人物たち<登場人物としての作家<作家自身、という入れ子構造が提示される。

 さらに、執筆途中の作品を女弟子にのぞき見られ、「この「彼」ってあなたでしょう?」と駄目を押されるのだから、この時点で、この「彼」という三人称が、実は作家を語り手とした虚構だという構造が、割と序盤で明らかにされる。

 むろん、同時にそのことを通して、この『サード・パーソン』というタイトルをもつ映画作品自体も、同様の構造をもっていることが示唆されるという仕掛けなのだ。というか、この作品は、その虚構の構造自体がテーマなのだと言ってもよい。

 だから、ラスト近くでわざわざ登場人物たちを次々に消していったりする必要はなかったのではないか。虚構であることをわかりやすく示そうとしたのだろうが、ここまでは悪くなかっただけに少し残念である。

 これだと完全に嘘くささが消去され、あまりに虚構になりすぎてしまう。結局は、作家=語り手=神になってしまうからだ(現に、リーアム・ニーソンを中心に「世界」がぐるぐる回るカットもある)。

 ある程度の嘘くささあっての虚構なのだ。

中島一夫