大西巨人と中村光夫の論争 その2

 大西は、まず「私小説」ではなく「一人称小説」と呼び、それを定義する。

 

私は、この文章の中で「一人称小説」という言葉を使うから、初めにその我流の意味を説明しておく。つまり私は、それを定義しておく。ある作の(一人称の)語り手が同時にその主人公(能動的な主要人物)でもあるという形式の物、たとえばチェーホフの『妻』、ヘミングウェイの『武器よさらば』、フォークナーの『征服せられざる人人』、マンの『道化者』、大岡の『野火』、三島の『仮面の告白』、……を、私は、「一人称小説」と呼ぶ。いまの私自身は、「一人称小説」にある特殊な愛着を持っている。非「一人称小説」に比べて、この形式は、綜合的な仮構世界を構成することの上で、いくらか余計な制約を伴っているかもしれないけれども、その代わり独特の迫力と精力(エネルギー)の充実感とを表わし得る、と私は考える。(「公人にして仮構者の自覚」)

 

 「一人称小説」とは、「(一人称の)語り手が同時にその主人公(能動的な主要人物)でもあるという形式」の作品であるが、大西にとって最も重要なのは、その際「語り手」と「作者」が明確に区別されていることだ。

 

では、何が実在の作者と非実在の語り手との本質的な差別であるか(あらねばならないか)。語り手にとって彼の物語る現実は必ず常に事実であるにたいして、作者にとって作品現実は必ず常に仮構(の真実)である、――二つの型を通じて、これが、語り手(ファクト・テラー)と作者(フィクション・メーカー)との根本差別(本質的差別)である。語り手(主人公)は常に彼の事実を語っていて、しかも同時に作者は常に彼の仮構を語り手に語らせている、という二重関係の成立が、「一人称小説」の大原則でなければならない。

 

 大西が重視するのは、「一人称小説」のこの「二重関係」である。すなわち、「語り手」が「非実在」でありながら「彼の物語る現実は必ず常に事実である」一方で、「作者」は「実在」しているものの「作品現実は必ず常に仮構(の真実)である」という、両者のねじれた関係である。この「ファクト・テラー=語り手」と「フィクション・メーカー=作者」との「根本差別(本質的差別)」こそが、「一人称小説」を支える「大原則」なのだ。

 

 すぐに気づくことだが、この「語り手」と「作者」の区別は、何も「一人称小説」に限定されるものではないだろう。では、なぜ大西は、ほかならぬ「一人称」の小説についてこの「大原則」を持ち出したのか。もちろん、このエッセイ自体が、佐藤春夫の「一人称小説」である『わんぱく時代』への批判として書かれていることや、大西自身が「一人称小説」に「独特の迫力と精力の充実感とを表わし得る」可能性を感じていたこともあろう。

 

 だが、おそらくその根底には、いわゆる日本の「私小説」を理論的に批判するというモチベーションがあったのではないか。大西も次のように言っている。

 

複雑な混同・本質的差別の無視によって惹き起こされたあやまりを含んで、あるいはあやまりそのものとして、出来上った片端の(堕落した)「一人称小説」または非小説が、これまで「私小説」と概括して呼ばれてきたのである。――初めに断わったように、便宜上私は、問題を「一人称小説」に限って取り扱ってきたが、そこで私が与えた説明の主旨は非「一人称小説」にも妥当する、と私は信じる。

 

 「私小説」とは、あの「語り手」と「作者」の「本質的差別」の「無視」によって出来上がったものにほかならない――。これが「私小説」に対する大西の根本的な批判である。だからこそ、「私小説」とは呼ばずに「一人称小説」と「定義」し直し、その「大原則」を掲げることで、「片端」で「堕落した」まま続いてきた日本の「私小説」を正そうとしたのだろう。「語り手」と「作者」の区別の「無視」は、次のように「私小説」へとなし崩しになっていくと大西は言う。

 

〔…〕本質的差別の無視は、作者が作者自身すなわち仮構者(フィクション・メーカー)を語り手すなわち実話者(ファクト・テラー)と取り違えるのであるから、「一人称小説」の大原則への違反である。語り手は常に彼の事実を語っていて、しかも同時に作者は常に彼の仮構(への真実)を語り手に語らせているという、あるべき二重関係が、そこで破壊せられる。語り手は「彼の」でなく「作者の」事実を、しかもしばしば不十分に語っていて、したがって同時に作者は彼の「仮構の真実」をでなく「事実」を、しかもしばしば不十分に語らせている、というあるべからざる二重〔?〕関係が成立する。この時作者は、仮構者の自覚ならびに責任を放棄しているのである。語り手が「彼の」でなく「作者の」事実を語る(語らせられる)とき、語り手の知ろうはずがなく語るべきでない事柄を語るあやまりも生じる。また語り手が「彼の」でなく「作者の」事実を不十分に語るとき、彼のまさに知っていて語るべきである事柄を語らないあやまりも生じる。そして作品現実は、それだけ(仮構の)事実から遠ざかる。

 

 では、「一人称小説」であるべきが「不十分」な「私小説」へと「堕落」する根源的な原因はどこにあるのか。大西はそれを次のように述べる。

 

本来、小説家が彼の「仮構の真実」を語り手に語らせる(語り手を通じて語る)という行為は、半面では小説家が小説作品の「小宇宙としての完結」を追求することを意味し、半面では小説家が主人公としての公事を語る(語らせる)ことを意味し、その小説に仕立てられる対象がもと私事であると否とにかかわらず決して私人として私事を語る(語らせる)ことを意味しない。仮構者にして公人、公人にして仮構者、――これが小説家である。ところが、作者が自己を実話者(語り手)と同一視して仮構者の自覚ならびに責任を見失うと、その作者は同時に公人の自覚ならびに責任を多かれ少なかれ見失うことにもなるのである。

 

 大西にとって、小説家はまずもって「仮構者=公人」でなければならない。仮構者は、いかにして「公人」たり得るか――。大西の小説観のアルファにしてオメガである。中村光夫に対する批判も、要は中村が「仮構」(奇しくも「仮構」は中村も多用するタームだ)に対する自覚を欠くということに尽きる。同じく「仮構」を重視していても、そこに「公人」としての自覚が欠如しているために、「文学上の真と嘘」の位相と、「現実上の真と嘘」の位相とが、区別されずになし崩しに癒着してしまっているのだ、と。

 

 では、「公人」とはいったい何なのか。そこに、同じく「仮構」を重視する大西と中村とを分けるものがある。それによって、両者の言う「仮構」の意味も異なってくるのだ。

 

(続く)