大西巨人と中村光夫の論争

 一九七〇年代に交わされた大西巨人中村光夫の論争は、リアリズムについて考えさせる。大西「観念的発想の陥穽」(七〇年三月)→中村「写実と創造」(同年四月)→大西「『写実と創造』をめぐって」(同年四月)→中村「批評の基準について」(同年五月)と応酬があり、当時は、川村二郎が論争に計三度言及するほどそれなりに注目された。大西は、川村の言及もふまえて論争全体を振り返り、総論的に「作者の責任および文学上の真と嘘」(七三年五月)を書いて、論争はひとまず終結した。

 

 論争は、もともと大西が、中村の小説『贋の偶像』(六七年)中の「ローゼン公使代参光景」の描写を、「現実的にあり得ぬ」ものとして批判したことに端を発する(大西は、同様に三島由紀夫の『奔馬』の一場面についても批判しており、ことは先日のエントリー「中村、三島、転向」の問題全体にかかわる。要はリアリズムの問題だ)。中村が、自らの描写の「現実」性の担保として、元外交官からの手紙をもってきたかと思えば、対する大西はソ連作家同盟の手紙を自説の根拠として持ってきてマウントをとった。これだけ見ると、争点は単に描写のリアリティの問題のように見える。

 

 この論争について、ここで細部を追うことはできない。大西の主張のコアにあるのは、次のような主張である。

 

私の一眼目は、「事実にたいする厳密な態度」というように要約せられるべきではなく、たとえば「文学上の『真』と『嘘』とにたいする厳密な態度」というように要約せられるべきである。「文学上の『真』と『嘘』とにたいする厳密な態度」は、「現実上の『真』と『嘘』とにたいする厳密な態度」から本源的に出発し、そこで後者といったん訣別(絶縁)するけれども、しかも両者の間には、深奥的・辨証法的な調和または統合または照応の連鎖が、そこはかと、あるいは隠然と、保有せられる。(「作者の責任および文学上の真と嘘」)

 

 この論争において、大西は一貫して「文学上の真と嘘」と「現実上の真と嘘」とを峻別している。そして、この位相の区別が中村には存在しない、というのが、大西の批判の骨子であろう。大西はこう断じる。

 

如上の「理解不能」や「混同・同一視」やが、「日本(亜)自然主義文学」ないし「私・心境小説」にたいする中村の(『風俗小説論』前後より今日までの)批判論――ひいては中村の文学論一般――の根本短所を作り出している、ということに、「評家」中村は、いっこうに気づくことができない。如上の「理解不能」や「混同・同一視」や「作品にたいする作者の責任の無自覚」やが、長編『わが性の白書』、長編『贋の偶像』、短編集『虚実』、長編『平和の死』などの主要弱点――わけても「日本(亜)自然主義」的人間観と語の真義における「私小説」的属性との全編的浸潤――を招来している、ということに、しかし「作家」中村は、遅蒔きながら心づくべきである。 

 

 この論争の重要性は、中村光夫の「文学論一般」であり、中村が生涯をかけたと言っても過言ではない、その「「日本(亜)自然主義」ないし「私・心境小説」への批判を、大西が全面的に退けたことにある。ことは、中村の一小説の一描写にとどまらない。上記から、大西が、ほぼ文学者中村光夫の総体――批評家としても作家としても――を否定していることがわかるだろう。繰り返せば、大西の主張の根幹には、中村が「文学上の真と嘘」と「現実上の真と嘘」とを「混同・同一視」しているということがあった。

 

 さらに重要なのは、この論争自体は七〇年代に入ってから表面化したものの、実はすでにスターリン批判(一九五六年)以降にその兆しは胚胎していたと思われることだ。大西の「「指導者」失格」(五七年四月)、「公人にして仮構者の自覚」(五八年九月)、「内在批評と外在批評との統合」(五八年十月)などは、論争の「序章」ともいえる。とりわけ、「公人にして仮構者の自覚」は、大西の「私小説論」といってよい。中村の私小説批判に対する批判は、すでにここから始まっていよう。では、大西は、「私小説」の問題をどのように捉えていたのか。

 

(続く)